二村 一夫
学会改革前史
──第22、23期幹事会のころ
はじめに
先ごろ、伊藤セツ会員は、この《談話室》に「武川正吾代表幹事体制の発展を願って」と題する論稿を寄せられました。その文末で、「歴代代表幹事は、その体験をこの欄で書き残すように」との要望を述べておられます。本稿は、この呼びかけに応えるためのものです。また同稿は、私の名を何回もあげ、過分の評価をくだされています。しかし、言うまでもないことですが、学会改革は代表幹事一個人の力で実現するはずもありません。歴代の幹事会や学会誌編集委員会、大会企画委員会など諸機関が、さまざまに検討を重ね、努力されてきた結果です。たとえば、現在につながる〈学会改革〉の動きが始まったのは、私が代表幹事をつとめる以前の第22期のことでした。専修大学が本部校で、加藤佑治会員が代表幹事だった時代です。またその際、口火を切ったのは、第21期に代表幹事をつとめられた青山学院大学の石畑良太郎会員でした。こうした事実は、誰かが書き残しておかなければ忘れ去られてしまうおそれがあります。
そこで今回は、1993年秋の〈改革〉問題の発端から、1995年秋の会則全面改正にいたる、いわば〈改革前史〉について紹介したいと思います。現在につながる〈学会改革〉の動きが始まったのは僅かに十数年前のことですが、現会員の3分の1以上がこの時期以降に入会されていますから、こうした記録にもそれなりの意味はあるでしょう。テーマがテーマですから引用の多い無味乾燥な文章になります。主としてエッセイを掲載してきた《談話室》には不似合いなもので、しかも長文になりそうですが、しばらくお付き合いいただければ幸いです。
会則改正問題から出発
学会改革問題が初めて提起されたのは、1993年9月25日に専修大学で開かれた第22期第11回幹事会のことでした。議事録の最後に、次のように記されています。
6.その他
石畑幹事から、学会の会則に不備な点があり、また「申し合わせ事項」も余りに多すぎるので、この際会則を整備してはどうかとの意見が出された。石畑幹事の協力もえて、今後本部として検討することにした。
実際、この頃の『会員名簿および会則等』を見ると、十数ページにわたって「内規」や「幹事会申し合わせ」が記されています。参考までに、別ファイルで当時の「内規・幹事会申し合わせ」を掲載しましたので、ご参照ください。この段階では、〈学会改革〉というより、多すぎる「内規」や「申し合わせ」を整理し、整った会則を制定しようという提案でした。
つぎにこの問題が議題に取り上げられたのは1994年2月7日の第14回幹事会のことでした。議事録には、次のように記されています。
3.会則の改正について
石畑幹事に依頼してある会則等の改正作業は、現在継続中でありまだ成案をみていない。3月末までに具体的な改正案をとりまとめ、事前に改正案を幹事に送付して検討しておいてもらい、学会前日に開催される幹事会の場で審議することにした。幹事会で改正案が了承されれば、翌日の総会に諮ることになる。
第15回幹事会は、第88回大会の1ヵ月前、1994年4月28日に開かれました。当日、石畑幹事から会則改正案が提示され、ここで初めて学会改革問題が論議されたのでした。当日の議事録のうち、関連箇所は以下のとおりです。
3.会則の整備について
この件については、代表幹事から協議ということではなくフリーディスカッションということで議論してもらいたいとの話があり、石畑幹事が作成した改正案の説明を受けた。石畑案は、まず基本となる会則を整備し、次に施行細則等の整備を行い、さらに抜本的な改革が必要となればそのうえで行うとの提案であった。また、会則にさまざまな了解事項を盛り込むとかえって会則が煩さになるので、現在の会則を土台として整備したいとのことであった。
議論では、石畑案は会則の整備と改革を一緒にしているので、今回は整備に限定してはどうか、整備といいながらそこに改革案を盛り込んでいるのはまずいのではないか、整備だけならば現在それほどの不都合もないので、やはり改革を重点にしてはどうか、改革をやるというならば会員の意向を確かめなければならないので、アンケートをとるとかプロジェクトチームを組むとかの措置が必要ではないか、改革といっても何が問題なのかはっきりしない、手続き論だけではなく何のための改革なのかはっきりさせるべきではないか、年2回程度の会報を出すなど、会員間のコミュニケーションを密にするような改革も必要なのではないか、石畑案は改革の作業のなかで十分にいかしていくことができるのではないかといった意見が出された。
なお、次回の幹事会で改革の進め方についてつめることにした。
ここで提起された石畑案のなかに、幹事の多選を制限する規定がもりこまれていたこともあって、議論はやや紛糾しましたが、最終的には会則改正よりも、学会改革について十分に議論をつくす必要があることで一致したのでした。
次の第16回幹事会は、実質的に第22期幹事会としては最後となる、第88回大会前日の1994年5月27日に開かれました。議事録は次のように記しています。
3.学会の改革について
役員選挙のあり方をはじめとしてさまざまな改革案が提起されているので、新本部に1年間かけて問題点を整理してもらい、今後の改革の進め方についても提案してもらうことにした。
この方針は、翌日の第88回大会での総会でも確認されました。加藤佑治代表幹事が次のように報告し、承認されたのです。
5) 学会の改革について
役員選挙のあり方をはじめ、社会政策学会の改革が問題として提起されているので、秋の大会までに新本部校において問題点を整理し、今後の改革の進め方について提案してもらうことになりました。会員各位も、ぜひご意見、ご提案をお寄せ下さるようお願いします。
以上見たところから明らかなように〈学会改革〉が課題として提起されたのは、第22期幹事会において、つまり加藤佑治会員が代表幹事の時代のことでした。
学会がおかれていた状況
実際、当時の社会政策学会がさまざまな点で改革を迫られていたことは明らかでした。なにより大きな問題だったのは、学会が若い研究者を惹きつける魅力を失っていた点でした。1993年5月以降1年間の新入会員が、わずか11人に過ぎなかった事実が、学会の危機的状況を示しています。1994年5月に私どもが本部校を引き受けてすぐ、会員の生年月を含むデータベース作成に着手し、それによって会員の年齢階層別構成がほぼ明らかになりました。その結果が次の表で、1994年10月現在の学会の現況です。
社会政策学会会員 年齢・性別構成
| 会員数 | 比率 | 会員中
女性 | 会員中
女性比率 | 女性年齢
別構成 |
20歳台 | 9人 | 1.0% | 2人 | 0.2% | 2.0% |
30歳台 | 110人 | 12.7% | 16人 | 1.8% | 15.8% |
40歳台 | 261人 | 30.0% | 30人 | 3.5% | 29.7% |
50歳台 | 194人 | 22.3% | 24人 | 2.8% | 23.8% |
60歳台 | 197人 | 22.7% | 24人 | 2.8% | 23.8% |
70歳台 | 70人 | 8.1% | 3人 | 0.3% | 3.0% |
80歳台 | 19人 | 2.2% | 1人 | 0.1% | 1.0% |
不明 | 9人 | 1.0% | 1人 | 0.1% | 1.0% |
合計 | 869人 | 100.0% | 101人 | 11.6% | 100.0% |
【備考】
1) 会員数は1994年10月3日現在。春の大会時に入会承認済みで会費未納の2人を含む。
2) 年齢は1994年末現在。入会申込書『研究者総覧』『大学職員録』などにより調査。
3) 性別は名前からの推定によっているため、若干の増減がありうる。
これをご覧いただければ分かるように、1994年10月現在の会員869人のうち、20歳台はわずか9人、80歳台の半数以下です。また30歳台も110人、なんと会員の82.2%が40歳以上でした。
なぜこのような事態に陥っていたか、その原因は単純ではなく、多岐にわたるものだったと考えます。ただ、学会側の問題としては、若い世代の研究関心の変化を見逃さず、多様な研究関心に応えうる仕組みをつくりあげる必要があったでしょう。社会政策学会のように学際的な研究団体、研究対象の面でも、また方法的にも多彩な研究者を集めている学会は、もっと数多くの研究者、とりわけ若い世代の研究者に発表機会を提供し、次世代の研究者を育てる努力が必要だったと思われます。しかし社会政策学会の大会は、戦前から共通論題を重視して来ました。とりわけ秋の「研究大会」は、2日間すべてを一つの共通論題にあてる方式が長い間採用されてきました。これは、『叢書』の編集、販売等への配慮があったからではないかと推測されます。一方春の大会は、半日をテーマ別分科会や自由論題分科会等にあてていましたが、共通論題重視という点では秋の大会と同様でした。当然のことながら報告者の数は限られた上に、ともすれば〈著名会員〉が再三登場する反面、新人が登壇する機会はきわめて限られていました。
また常設分科会としては「労働組合分科会」「生活問題分科会」「社会保障分科会」「福祉問題分科会」の4つがありました。いずれも学会創立後まもなく設立されたもので、活動も決して活発とはいえませんでした。こうしたマンネリ化した学会運営が続いた背景には、幹事会の構成が特定の研究分野に偏りがちで、幹事の顔ぶれが固定的傾向を見せていたことと無関係ではなかったと思われます。こうした学会の危機的状況を端的に示していたのは財政難でした。毎年、収入を上回る支出を計上する赤字予算を組まざるをえない事態に陥っていたのです。
さらに問題を複雑にしていたのは、学会、とりわけ幹事会のなかに〈東西対立〉ともいうべき、歴史的に形成された不和が存在していたことでした。これは学会本部が組織する春の大会だけが学会の正規の大会であり、秋の大会は地方部会が組織する「研究大会」と位置づけられていたこと、また学会の正規の機関誌『社会政策学会年報』は春の大会記録を中心に編集され、秋の大会の記録は『社会政策叢書』〔創刊時は『社会政策学会研究大会叢書』〕として、関西部会を中心とする地方部会選出の編集委員会によって編集発行されていた事実を背景にもっていました。『年報』は会員すべてが購入を義務づけられており安定的に刊行されていましたが、そうした仕組みをもたない『叢書』は、一部会員の個人的な努力に支えられ、辛うじて刊行を継続していました。つまり学会内の〈東西対立〉は、歴史的に形成された個人的・感情的な不一致というだけでなく、大会開催や機関誌刊行という、学会のもっとも基本的な活動についての制度的不備が生み出したものだったのです〔この〈東西対立〉の激しさの一端は『社会政策学会研究大会叢書』第1集「あとがき」に見ることが出来ます〕。
この際つけ加えておけば、こうした〈東西対立〉は、1960年代後半における〈学会改革〉の所産であった事実を忘れてはならないと考えます。この時の〈改革〉は、本部校として年2回の大会を主催してきた東京圏の大手大学の会員が大会の年1回開催を主張したことに端を発しています。一方では、これを研究機会の縮小であるとする地方部会所属会員との間で激論が交わされ、その結果、妥協的な決着として春の大会は本部主催、秋の大会は地方部会主催とする方式が採用されたのでした。この問題は、社会政策学会にとって〈改革〉が不可避の課題であることを明示していました。が、それと同時に〈学会改革〉は「言うは易く、行うは難い」問題であり、その処理を誤ればかえって禍根を残す結果となることも教えているのです。
第23期幹事会の取り組み
「秋の大会までに新本部校において問題点を整理し、今後の改革の進め方について提案」するようにという、前期幹事会からの申し送りを受け、学会改革は第23期幹事会の最重要の課題となりました。ただ、前述のような〈東西対立〉が存在していましたから、改革を成功させるには、幹事全員が出席できる場で討議することが決定的に重要でした。しかし、幹事全員が集まって議論を交わしうる機会は、年2回の大会前日に開かれる幹事会に限られていたのです。大会当日は、幹事会と並行してさまざまな委員会が開かれますから、幹事全員が集まることは不可能でした。また大会と大会の間に開かれる幹事会では、東京圏在住の幹事中心の集まりとなってしまい、そこで学会のあり方を変える決定をおこなえば、かえって問題をこじれさせるおそれがありました。
このように限られた時間のなかで合意を形成するには、フリーディスカッション方式では不可能です。あらかじめ論点を整理し、キイとなる問題を集中的に討議し、決定を積み重ねて行くほかありません。そこで私は、第23期幹事会の実質的に最初の会合である第2回幹事会に「社会政策学会活性化のための改革方策に関する論点メモ」と題する文書を作成し、これをたたき台として全幹事に改革に関する意見や提案を出してもらい、論議をすすめることを呼びかけました。その全文は別ファイルで見ていただけるようにしましたので、御用とお急ぎのない方はご覧いただければ幸いです。ここでは、文書の冒頭部分のみ引用しておきましょう。
今秋の大会までに、本部校が、社会政策学会の改革に関する問題点の整理をおこない、改革の進め方について提案するよう、前期の幹事会で決められ、総会でも報告されています。これまで、主として問題にされてきた、あるいは改革論議のきっかけとなったのは、幹事の選出方法でした。しかし、改革が必要なのは、単に役員の選出方法や任期だけでなく、大会、研究大会のあり方をはじめ、本部の役割、地方部会、常設分科会の活動、年報、会報などの出版物など多岐にわたると思われます。
そうした諸問題について、短期間で、全会員が一致する改革案をまとめることは、容易ではありません。しかし、現在、社会政策学会の組織・活動などさまざまな面について見直しが必要であることは、多くの方が指摘されているところです。この問題は、おそらく、今期の幹事会の最大の課題であろうと思います。
学会の改革の成否は、その内容はもとより、その実現にむけ、できるだけ多くの会員、とりわけ若い世代の会員が、自主的積極的に参加するか否かにかかっていると考えます。それには、この問題を幹事会での会則修正問題に限定することなく、より広範な問題について、さまざまな場で論議し、それによって多くの会員が学会の活動に意欲的に参加し、積極的に発言するような状況をつくる必要があると考えます。それには、幹事会が、できるだけ早い機会にこの問題を検討を始める必要があると思い、手始めにこのメモを作りました。
幹事各位、さらにできるだけ多くの会員から、多様な改革意見、学会の現状に対する批判が出てこないことには、問題点の整理も出来ません。そこで、まず、従来、幹事会の場をはじめ、さまざまな機会に出された問題点、批判点、改革案などを列挙し、それに私自身の思いつきも加えてみました。
要するに、以下のメモは、今秋の大会までに整理せよと指示された「問題点の整理」に向けての前段階の作業として、多様な改革意見を出していただくための〈呼び水〉として、作成したものです。
この呼びかけに応え、多数の幹事から改革に関する提案・意見が寄せられました。これを受けて、〈学会改革〉について最初の本格的な討議をおこなったのは、1994年11月4日に佛教大学で開かれた第4回幹事会でした。会合に先立ち、全幹事に、寄せられた提案や意見をふまえた「学会改革に関する論点整理」と題する文書をあらかじめ送付し、検討を依頼しておきました。この文書の全文も別ファイルにまとめてありますからご覧ください。また、この幹事会での検討の経過および結論については、第4回幹事会記録をご参照ください。
この第4回幹事会は、大きな成果をあげました。これまで、何回も問題にされながら、その都度見送られて来た「役員の多選制限」について、ようやく合意が成立したのです。選挙方法の改革もふくむその要点は、以下のとおりです。
「 1) 幹事は,連続3期を限度とする。ただし1期休めば,改めて連続3期選出されるうる。また,その起算は今期からとする。すなわち現幹事は,あと2期でかならず交代する。
2) また「役員定年制」については、これを設けないが,「65歳以上の幹事の比率は,全会員中の65歳以上会員の構成比以内とすることとした」。
3) 役員選挙についても、「これまでの10名連記制を改め,次回から7名連記とすることにした」。また「選挙による幹事は,従来どおり地域ブロックごとに選出する。しかし,推薦幹事については地域別の枠をはずし,分野・性・年齡・地域などさまざまな要素を考慮して,幹事会の構成が偏ったものとならないようにする」。
なお、こうした〈学会改革〉に関する審議経過等について全会員に情報を伝えるため1994年7月にNewsletterを創刊し、第23期中に7号を刊行しました。これと同時に、1995年4月には、会費値上げ問題、とりわけ『社会政策叢書』の購入義務化をふくむ会費値上げの是非について、全会員の意向を問うアンケートを実施しました。その結果は次のとおりです。
アンケート結果(1995年5月24日現在、回答348人)
| 賛成 | 止むを得ない | 反対 | その他 | 無記入 |
会費1000〜2000円値上げ | 48人
(13.8%) | 207人
(59.5%) | 81人
(23.3%) | 8人
(2.3%) | 4人
(1.1%) |
叢書購入の義務化 | 58人
(16.7%) | 98人
(28.2%) | 168人
(48.5%) | 16人
(4.3%) | 8人
(2.3%) |
大会開催を年1回に | 142人
(40.8%) | 91人
(26.1%) | 96人
(27.6%) | 11人
(3.2%) | 8人
(2.3%) |
院生などの割引制導入 | 208人
(59.7%) | 81人
(23.3%) | 42人
(12.1%) | 11人
(3.2%)
| 6人
(1.7%) |
つぎに学会改革問題を集中的に討議する場となったのは、1995年の春の大会の前日5月26日に開かれた第9回幹事会でした。この会合では、全会員に出したアンケートの結果を受け、財政問題、とりわけ『社会政策叢書』を学会の正規の機関誌とし、会員に購入を義務づけるか否かが検討されました。その結果、会員の間に、「叢書購入の義務化」に反対が強いことを考慮し、幹事会としては、大会の年2回開催は維持するが、叢書購入の義務化については見送ることとしました。しかし、これに代わる暫定措置として一定額の「叢書刊行補助費」を予算に計上することで一致をみたのでした。このように問題を全会員に問い、幹事会で審議し、『社会政策叢書』を学会の機関誌と位置づけて刊行補助費を支出するようにしたことは、学会内の〈東西対立〉を克服する第一歩となりました。ただこれはあくまでも第一歩であり、学会機関誌については今後さらなる改革が必要であることも、幹事会の一致した認識となったのでした。
こうした審議ののち、成城大学で開催された第90回大会の総会において、95年秋の大会において学会の会則を全面的に改正するための臨時総会を開くことが報告され、承認が得られました。この間の幹事会や大会における討議のあらましは、23期幹事会記録をご覧ください。このような経過を経て、1995年8月、会則の全面改正案を作成し、Newsletter No.5 で、会員全体に伝えました。
かくて1995年10月に金沢大学で開かれた第91回大会の際に臨時総会が開かれ、会則の全面改正が圧倒的多数で承認されたのでした。また、1000円の会費値上げを可決すると同時に、大学院生に対する会費の割り引き制も新らたに設けられました。
また、常設の分科会〔現在の専門部会〕も、1995年度をもって既存のものはすべていったん解散し、あらためて組織し直すことになりました。その結果最初にジェンダー部会が、ついで労働史部会、総合福祉部会、社会保障部会などが新設されて行きました。
おわりに
〈学会改革〉が実際に進みはじめたのは、高田一夫代表幹事時代の第24期以降のことです。春の大会と秋の大会がともに学会の正規の大会として認知され、1999年からは両大会の記録はともに『社会政策学会雑誌』に掲載されるようになりました。それも、最初は春と秋とでは異なる出版社から刊行され、年報と叢書の号数を引き継ぐという変則的なものでしたが、2002年の第7号から法律文化社に一元化されました。これに先だって、共通論題一本だった秋の大会も90年代には書評分科会を開くようになり、2001年からはテーマ別・自由論題分科会も設けられるようになりました。春秋の大会で、年々分科会の比重が増し、会員の発表機会は大幅に増加しています。
昭和女子大学が本部校の際、学会の事務処理を株式会社ワールドプランニングに委嘱することを決めたのも、学会のその後に小さからぬ意味をもちました。さらに伊藤セツ代表幹事の強力なリーダーシップのもとで、役員選挙に郵送投票が取り入れられました。こうした積み重ねの上に、ついに第28期には、大阪市立大学が学会本部を引き受けるという、長い学会の歴史にとっても画期的な事態が生まれました。本部が初めて東京圏の外に出たのです。文字どおり全国学会としての力量を示す出来事でした。さらに大会参加費の徴収により、長年の財政難克服のメドがたちました。こうした改革の背後でどのような問題があり、それをどのように克服してきたのかについては、各期の代表幹事にその体験を寄稿してくださるようお願いしていますので、ご期待ください。
〔2006.6.30〕