伊藤 セツ
武川正吾代表幹事体制の発展を願って
社会政策学会第112回大会が2006年6月4日に立教大学池袋キャンパスで終わった。1992年5月、第84回大会が昭和女子大で終わったときのことを思い出す。会場校を引き受けて責任を負ったものだけが共有するであろう、ある種の感情が言葉を超えて今回も沸き起こり、井上雅雄実行委員長、菅沼隆幹事に頭を下げた。
前日、6月3日昼は、玉井金五体制最後の第21回幹事会で、夕方は総会であった。2001年、二村一夫会計監査の次点として、氏の滞米の不在に代わって以来、3期6度目の会計監査を務め、任期を満了した。私が始めて推薦監事になった石畑良太郎代表幹事の1990年、会計監査は佐口卓氏であり、1998年-2000年の私の代表幹事時代の会計監査は島崎晴哉氏であった。佐口卓氏は毎回幹事会に出られ、お弁当を食べた後よく居眠りしておられ、私が監査を受ける側にたった島崎晴哉氏は、会計の収支内容を見て、私に「学会の長い伝統の暖簾を降ろす気ですか」とやさしく言われた。そうした何か一段と上の存在に思われた会計監査をこの私がもう6年もやってしまったとは!
武川新代表幹事は、就任の挨拶で、「伊藤セツ氏以来の学会の変革路線を受け継いでいくつもりだ」という意味のことを言われた。私はすぐ武川氏のところへ行って「私からではない。二村一夫氏の時代からだと言うべきでした」と言った。二村氏にそのことを告げると「伊藤さん。これからはね。忘れられるものなんですよ」と私をたしなめられた。
しかし、私はどうしても忘れられない光景が多々ある。そのひとつは、私がこの学会の幹事であり続けた1990年代(この期間はそれ以前と違って講座制はくずれ、もはや教授・助教授・助手・院生・事務というヒエラルヒーは大学にはなかった)、会の運営に貴重な時間とエネルギーを注いだ代表幹事がその2年間の任期を終えるときのそれぞれの姿である。とにかく「襷」ならぬ「暖簾」を無事次期ランナーに渡すために強引に左右をふりきって安堵される人、私の直前に孤軍奮闘で苦労された高田代表幹事は、私の不安をまえに、ただ「ああ、終わってうれしい」と連発して、事務引継ぎの最中に疲れはてて何度も船を漕いでいて、私の不安は恐れに変わったほどである。高田氏の前の二村代表幹事は多くをなされて任期をおえられた後、学会会場に出ないで空き室で黙して座っておられた。
それに、私に忘れられない学会運営上のことが多々ある。今、会員があたりまえと思っていることが、この学会の長い議論と創意で作り上げられてきたものであることを、私が代表幹事をしたときまでに限定し10点だけ挙げておく。
1. 学会賞・奨励賞も1994年、故加藤佑治代表幹事のとき以来である。社会政策学会に学会賞はなじまない等の意見がでて、大論争をしたが、栗田健幹事が、学会賞の創立を強く主張され、規定ができて今日に至っているのである。卓見だったと思う。
2. 学会ニューズレターは、ずぅっと前から発行されていたのではなかった。発行し始めたのは、二村代表幹事のときである。高田代表幹事以降これに倣った。
3. 学会ホームページなんてなかった。今日あるのは、学会100年を記念し、高田代表幹事のとき、二村幹事が立ち上げたのである。このホームページは、今日、比類ない情報提供と記録の保存に役立っている。
4. 役員選挙は大会時の総会で参加者だけで行い(今ではとても信じられない)、任期制は導入されていなかった。30年以上も幹事であり続けることが誇りであったらしい。何期にもわたる論争を経て、1995年から1998年の間に、連続三期を限度とすること、65歳以上の幹事の人数を全会員の65歳以上会員の構成比以下にすること、連記制の人数を10人から7人に減らし、ブロック毎で一定数を選んでいた推薦幹事の地域的なしばりもはずすなどの改革が進んだ。こうして1999年、二村幹事を選挙管理委員長として、はじめて郵送選挙が実施されたときのことは忘れられない。
5. 学会事務は、すべて本部校でやっていた。このことは、高田代表幹事のときに会員の多い一橋大学においてさえネックとなり、一橋大学よりさらに会員数の少ない体制の整わない昭和女子大学に本部が移っていよいよ「ときは今」と、森ます美幹事と相談して、強引に事務センターに委嘱を断行した。
6. 学会の春秋の大会と機関紙の発行が二元的に組織されていた。この統一への改革のための高田代表幹事の人知れぬ苦労は大変なものであり、さらに編集委員会の努力、幹事会の話し合いには多くの時間とエネルギーを必要とした。学会誌に審査論文を掲載し、科学研究費補助金をとる体制づくり以前の苦労があった。
7. 院生の学会入会は博士課程の院生からであった。理由は、修士は本当に研究者になるかわからないし、学会のレベルが下がるというのである。修士課程の院生の入会が認められたのは、昭和女子大に本部を置いたときであり、私の院生が修士入会者の1号であった(ちなみにこの第1号は、Dに進み、学位を取得し、学振の特別研究員となり、就職し、この第112回大会で保育所利用者の親となった)。
8. 学会参加費はずっと無料であった。そのうえ、会費を大会参加時に支払い、会場で学会誌と交換していた。大会受付の混乱状況を想像していただきたい。このあたりの改革は、学会の組織文化を変えることであり、改革にはエネルギーを必要とした。
9. 幹事会が夕食時にかかるとき、本部校が幹事の弁当を用意し、大会の時は、開催校が幹事の弁当を特別枠で用意していた。予算上これが極めて問題であることが明確になり、さる大学での開催のとき、高名な会員が係りとなって幹事から千円ずつ集めて歩いていたのを思い出す。それを契機に自己負担が当然のこととなった。
10. その他、当時国際交流が活発でなく、ヨーロッパの二つの学会に団体加盟していた。それが妥当かどうか、私が代表幹事の1998年夏休みに、ベルギーとハンガリーで開催された大会に出てみて団体加盟に疑義を呈した。その他、幹事会は常に東京で行われ、地方幹事が参加する予算措置はなかった。国際交流、予算措置を含めて上井嘉彦、森建資、玉井金五代表幹事に受け継がれて今見る姿になっている。
私は任期制のない1990年から推薦幹事1期、選挙幹事4期(うち1期は代表幹事)、会計監査を3期、合計16年、毎年春秋の大会時は幹事会室で昼食をとる身であった。来年から昼休みは誰とでも一緒に食事をとれることを安堵している。
社会政策学会は、組織的にも激論を戦わせた歴史の上に立っている。新しい代表幹事・幹事の皆さんがますますその姿勢を強めて会を発展させることを期待している。
以上、勝手なことを書かせていただいたが、私の誤解、思い違いもあるかも知れない。最後にひとつお願いがある。それは、社会政策学会改革の90年代を担った先輩歴代代表幹事のみなさん、21世紀初頭にもう3代も歴史を重ねた代表幹事のみなさんに、新しい学会の担い手たちに忘れてはならないことを、この欄で書き残しておいていただきたいということである。
〔2006年6月5日寄稿〕