社会政策学会史料集



『社会政策学会年報』第4集 学会記事

三十年度

第十一回学会大会

第一日 五月四日 於明治大学
開会の辞 松岡三郎
挨拶 小島 憲
共通論題「国民生活の窮乏化と社会政策」
(1) 完全雇傭への通 国学院大 北岡寿逸
(2) 失業保険と失業対策事業について 専修大 江口英一
(3) 国民生活の窮乏化に伴う社会保障の後退と役割 法政大 吉田秀夫
(4) 窮乏とその対策――Destitution―― 大阪社大 孝橋正一
総括討論 座長 専修大 大友福夫
懇親会(於椿山荘)
第二日 五月五日
自由論題
(1) 被差別部落民の窮乏化と解放運動 和歌山大 南 清彦
(2) 賃労働の分析視角――社会政策批判―― 東京大 隅谷三喜男
(3) 地域社会と労働争議――東邦亜鉛安中工場と安中町の調査―― 高崎市大 高橋 洸 高崎市大 島崎 稔 東京大 有泉 亨 法政大 青木宗也
総会
閉会の辞 中川富彌
 大会は両日とも出席者二〇〇名をこえる盛況であった。第二日の自由論題の(3)においては、労働法学会より有泉、青木両氏が特別参加として報告・討論をされた。両学会の交流という意味で甚だ有意義であった。第一日は小雨であったが夕刻からは雨もはれて場所を椿山荘に移し、庭園を散策しつつ語りあい、しばしくれゆく春の宵を満喫し、ついで懇親会に入った。会員である明治大学小島憲学長の歓迎の言葉をはじめとして、藤本武氏の司会でテーブルスピーチもさかんに会員は親睦を深めた。
 また第二日は好天気にめぐまれ、総会も事務報告、会計報告、各部会分科会報告があって終了した。大会終了後には、労働組合分科会が映画の上映と懇談会を、第三日には同じく明大で生活問題・社会保障合併分科会が研究報告会を行った。地方在住会員が多数参加されて熱心な討論が行われたのであった。ちなみに、合併分科会の報告はつぎのとおりであった。
(一)東北農村民の生活水準 労研 藤本 武
(二)社会保障の諸問題 大阪市大 近藤文二



第十二回学会大会

第一日 十一月十二日 於関西学院大学
開会の辞 河野 稔
挨拶 岩崎卯一
自由論題
(1) 繊維産業労働組合の実態――全繊同盟の機構を中心として―― 関東学院大 井上 甫 早稲田大 松原 昭
(2) 特需工場の労働状態――小松製作所の場合―― 明治大 白石四郎 明治大 吉田忠雄
(3) 中小工業労働者の意識構造――なぜ労働組合がつくられにくいか、その主観的要因の把握の試み―― 京都大 人見嗣郎
懇親会(関西学院大学ホール)
第二日 十一月十三日
共通論題「わが国における戦後十年の労働組合――組織と機能――」
(1) 戦後労働運動史における若干の論点 専修大 大友福夫 大原社会問題研 田沼 肇
(2) 戦後労働運動の反省と展望 京都大 岸本英太郎 同志社大 西村豁通
(3) 労働組合の組織問題 東京大 藤田若雄
総括討論 座長 大阪市大 近藤文二
閉会の辞 矢口孝次郎
 大会は二日間とも約一五〇名の出席であった。大阪郊外千里山の閑静な地で学会を開催し、小春日和にめぐまれたことは幸であった。第一日終了後に、関学ホールで懇親会が行われ、今回は生ビールで秋の夜長を語り合った。会員である関西学院大岩崎卯一学長の歓迎の辞や河野稔氏の司会によるテーブルスピーチがあり、なかでも北澤新次郎博士と小島憲明大学長のユーモアにみちたスピーチはやんやの喝采であった。第二日は、共通論題で真剣な討論であり学会らしい雰囲気がもりあがった。

 第三日としての十四日には、分科会が会場を秋色深き奈良に移して共済会館春日野荘会議室でつぎのように開催した。
労働組合分科会
「京阪地方の労働情勢」 京都地評 那須事務局長 大阪地評 中江組織部長
生活問題・社会保障合併分科会
「医療扶助の諸問題」 大阪市大 奥村忠雄
「戦後の医療保障の歩みと当面の問題」 法政大 吉田秀夫
 (佐口〔卓〕記)

社会政策学会第十二回大会報告要旨

"自由論題"

 一、繊維産業労働組合の実態――全繊同盟の機構を中心として――
A 関東学院大学 井上 甫
 戦後日本の繊維産業は、戦前に比較して国内的、国際的にその産業的地位が変化した。しかも最近化繊の顕著な進出によりその構成が変貌する傾向もある。ところで現在、かかる繊維産業の発達と変質につれて当然わが国の繊維産業労働者と彼等の労働組合が変貌、発展していることはいうまでもない。従来日本の繊維産業労働者は、所謂農村子女の「出稼型労働」の典型と目されてきた。
 しかし綿紡績工場の女子労働者は近年農村経済の窮迫化につれて容易に離職せず、したがって勤続年数も長くなっているし、また化繊の拡張によって男子の通勤労働者が増加していることは注目さるべきである。
 現在わが国の繊維産業労働者は概算百万名を数えるが、織布、染色、メリヤスおよび縫製などは中小企業の未組織労働者が多く、労働組合への組織率はまだ半ばに達していない。しかし大企業を中心とした組織労働者の過半は企業別に全繊同盟に組織され、綿紡、化繊、羊毛、麻および地織など、蚕糸と麻の一部を除いて、その業種別部会を構成している。顧みるに、全繊同盟の生成は戦後総同盟の労働指導者が中心となって上から組織されたが、その後一九四八年には日繊連を吸収し、十大紡の労働組合を主流に漸次業種別、地域別の組織整理を進め、一九五〇年には総同盟の発展的解消につれて総評に加盟し、全蚕労連を合同して一応繊維産業における労働組合の統一を達成した。だがこの合同はやがて全繊同盟が総評を脱退し、自ら全労の結成に参加することによって再び決裂した。
B 早稲田大学 松原 昭
 われわれは全繊同盟の機構と活動をまず組織の経済的基盤をなす財政機構の分析と、組織の運営にあたる労働指導者の性格把握との二点から考察した。現在全繊同盟の組合員は約二八万名といわれるが、彼等の同盟費は一人月額二二円、部会費が約八円で、いずれも単位組合から納入されている。組合費の徴収はすべて給与からの天引制であるが、十大紡の組合費が月額平均三〇〇円を超えるのに対し、地繊に組織されている中小企業では組合費が一〇〇円以下のところも少くなく、加盟組合の財政も企業の規模によって大きな差異がある。概して繊維産業労働者の組合費は製造工業全般の平均を遙かに上廻った水準にあって、十大紡および化繊の企業組合はその本部に数千万円の基金をもち、支部組合にも数百万円の基金を有するものが多い。ところが従来全繊本部には罷業資金がなく、昨年の近江絹糸ストは主として加盟組合員一人当り四八四円のカンパによって遂行されたのであって、漸くその際の余剰金が今年度から本部罷業資金として積立てられることになった。ここに全繊同盟の活動が企業組合主義から脱却できない根拠があるとも考えられる。
 次に全繊同盟における労働指導者の性格については、まず組合員中約七割を占める女子が職場における代議員会にすら進出が少く、企業組合の役員は殆んど男子に占められていることを指摘せねばならない。しかも企業組合の労働指導者は、例えば十大紡の如き大部分が社員層によって構成されている。一般に大企業組合の役員は、本部では三役、執行委員とも、支部では支部長乃至書記長が組合専従者である場合が多いが、彼等の給与は専従前より少いことは殆んどなく、十大紡の組合長の平均給与は月額四乃至五万円におよぶ、そして彼等が全繊同盟の中央執行委員会の構成員である。なおこの中央執行委員には彼等企業組合役員の他に専門的労働指導者がいる。後者は一応企業組合主義から脱皮することができる。だが前者にみられる労働副官的性格と癒合すれば労働官僚化する危険もある。
 しかし現在発展変貌の過程にある繊維産業労働者は、早急にかかる機構の諸困難を認識し、近江絹糸スト以後彼等の階級意識を強化している。われわれはこの闘う全繊同盟のエネルギーを過少評価することはできない。
一、日本の繊維産業と労働者
二、全繊同盟の生成と発展
三、全繊同盟の組織と機能
四、全繊同盟の財政機構
五、全繊同盟の労働指導者
六、全繊同盟の当面する課題

 二、特需工場の労働状態−小松製作所の場合− 明治大学 白石四郎 同 吉田忠雄
 特需景気の波にのって戦後いちじるしく資本を増大していった小松製作所の経営方法は、まさに日本経済の典型的な一縮図であるかの観を呈している。小松製作所はもともと戦時中は、兵器生産の一端をになっていたが、戦後、開拓をさけばれるやすぐにブルドーザー生産に着手していた。しかし昭和二十二年末河合良成氏がその主導権をにぎるや、にわかに活況を呈し、朝鮮の特需が日本に発註されるや直ちに兵器の生産に着手し、また旧軍の工場の払下げをうけたのである。そして今、海外の諸国に賠償を支払うことが報ぜられると、その現物支払に自社の製品を送ろうとする挙措を示しているようであった。こうした、政治的勢力をバックにした特需工場は、国の施策に敏感な適応を示してきたが、そのためにはどのような労働者対策をとってきたのであろうか。
 朝鮮ブームによる受註に対して、同工場は大量に臨時工を採用し、また、もともとあった下請工場をさらに拡張することによって、大量の受註をまかなったのである。殊に、下請工場はその受註量の大半を引き受け、いわゆる「出血受註」までして納品したのであるが、小松製作所は、これらの一時的下請と直属の工場との構成を巧みにスライドすることによって巨大な利潤をあげ、間もなく特需が激減すると一時的下請工場との契約をたちきり、また臨時工を馘首した。特需発註の際の米の態度が全く一方的であったが、その間を縫って著しい増資に次ぐ増資をあえてした小松製作所のスウイミングも決して軽視できないものがあった。
 その巧妙な施策は同時に労働組合を骨抜きにしてしまった。全く不安定な経済的基盤に立つ特需工場は、日本経済を最も端的に象徴しているものといえよう。

 三、中小工業労働者の意識構造−なぜ労働組合がつくられにくいかその主観的要因の把握の試み− 京都大学 人見嗣郎
 未組織労働者が労働組合を結成しようとする際にぶつかる障害には客観的な要因と主観的な要因の二つの側面がある。そしてこれらは絡みあってくる。そこでその人達の生活条件を客観的に把握するだけでなしにさらに、これを与へられた労働者自身が意識のなかでそれをいかに受けとり、どう処理しているかという主観的なものを客観的につかむ問題がある。大阪府では昨二十九年に未組織労働者の賃金・生活・意識について調査(註)を行った。その方法論、それにもとづく調査の結果を辿って、この層の労働者の意識の基本的な型態にある程度近づきえたと思う。
 未組織労働者の多くは、労働組合を必要なものだと思っている。しかるにその企業に労組のない理由には結局「結成するのは難しい」、あるいは「無関心だ」と答へられる。その答のうちには、今なくても仕方がないという現状を肯定する気持が抜き難く強い。現在の給料で足りる。あるいは自己の労働に対して賃金は妥当であると答えるものが少なからず見られ、雇主または職場に対して何の要望も不満ももたない多くの人達がいる。また他によいところがあってもやはりこの職場で当分働くつもりだと答えるものが七割に達する。さらには、半ばを占める多数がこの社会に満足だという。こうした意識は、中小規模工場内で統一行動を阻む客観的条件とからみあって、そこでの労働運動を規制しているし、こうした層の存在は組織労働者の動きに影響を与えずにはおかない筈である。
 この意識の底にあるものは、諦めと安定感であろう。これを支える客観的条件の一つは、彼らの属する"持寄り世帯"の生活様式に見出せる。まず世帯主の勤労収入は三五歳あたりから下降するので必然的に世帯内の有業人員が多くなる。そのために義務教育のみで終るという学歴からくる卑下と諦め、行動が世帯の意志を一応反映せざるを得ないという保守性、さらには手に職がある、あるいは自分は失業しないという安定感である。そしてこのためにいつまでもこの層に沈澱して悪循環は世代に亘って繰返されてきた。しかしこの悪循環を断切る条件は中小経営の崩壊のなかに成熟しつつある。中小工業における労組の殆んどが、企業解散、倒産に際して結成せられることはこのことを物語っているのではないか。
(註)
 A 中小工業労働者の生活実態調査、大阪府立商工経済研究所四業種約二〇〇名、「中小工業労働者の生活実態」I、II、当所刊
 B 小企業労働実態調査、大阪府労働部労政課八業種約一〇〇〇名「零細企業労働者の実態」近藤文二月刊労働 No.七七「小企業実態調査報告」賃金通信 Vol.一八 No.一一


"共通論題"

「わが国における戦後十年の労働組合−組織と機能−」
 一、戦後労働組合運動史における若干の論点 専修大学 大友福夫 法政大学 田沼 肇
 戦後労働組合運動史の研究において、当面、とくに重要と考えられる課題は、つぎのとおりである。
(1) 運動の客観的条件である労働者階級の状態について、十分な調査・研究をおこない、その法則性を明らかにし、運動史研究の第一義的な基礎とすること。
(2) 戦後の運動が内包する主体的な弱点を、戦前からの運動における伝統の継続(あるいは断絶)という視点で、正確にとらえること。
(3) いわゆる「日本型賃労働」を固定的な前提とすることは、もちろん誤りであるが、一方、とかく軽視されてきた農業、農民問題との関連を客観的に認識しつつ、運動史の研究をすすめること。
(4) 国際的な労働運動の発展の一環として、それぞれの時期における日本労働組合運動の位置を明らかにすること。
 以上、列挙した四項目のうち、まず基本的には、(1)をもっとも重視する。
 従来労働者階級の状態について研究が不足していたため、運動の客観的条件を、支配階級の政策との対応関係だけに求めたり、運動史の叙述を、労働運動の指導的な方針、あるいはピークを形成した闘争の歴史だけに重点をおく誤りが現れている。
 われわれは、労働者階級の状態を規定している諸要因を法則としてとらえ(相対的・絶対的貧困化)、さらに、その法則が貫徹する諸条件を具体的に究明したい。たとえば「景気変動」は、貧困化法則の作用と、労働組合運動の消長とを、どのように条件づけるか。
 なお、運動史の研究において、特別区分の科学的な根拠が薄弱であること、国民の諸階層のなかに占める労働者階級の比重(ならびに労働組合運動の役割)についての正確な理解が不足していることなども、上述の欠陥にその主要な原因があると考える。

 二、戦後労働運動の反省と展望 京都大学 岸本英太郎 同志社大学 西村豁通
 いわゆる二・一ストの不成功は戦後の労働組合とその運動に多くに反省を迫るものであったが、そこにとりあげられた戦術の歴史も労働組合運動に決定的な転機を与えるものとはならなかった。すなわち「地域闘争」方針と「生産復興闘争」が考えられ、しかもそれを「戦場闘争」に基づきながら闘ってゆこうとするのであったが、ここには労働者階級がいかにして国民各階層との結びつきを強化するか、また労働者的な復興計画をいかにしておしすすめるかという点への大きな努力がみられ、しかもそのためには大衆闘争で支えてゆかねばならないという点に苦慮が払われてはいた。しかしながら地域闘争も生産復興闘争も政治闘争としての性格を強く帯び、従って職場闘争の強調もそれを通じて労働組合そのものを強化するというよりは、当面の政治闘争を成功させるための戦術として考えられたのである。これは占領下の政治闘争に対してであったからでもあったが、このことは職場闘争の中で労働組合に結集した労働者階級の基本的な要求である経済闘争をいかにして有効に組織するかについての真面目なとりくみが軽視されることともなった。実情を無視した賃金要求と、それに伴う幹部闘争への依存は、最近のマ・バ方式にいたる一連の傾向として示されるが、また職場闘争も統一行動を組織するよりも、単なる反職制闘争になったり、反幹部闘争に終ったりすることが多かった。こうしてその情勢評価のあいまいさとあいまち、最近の「地域ぐるみ闘争」や「平和経済闘争」にもみられるように、常に「労働計画」的な方向を指し示しながら、労働組合を強め、それを中心に国民各階層との結合を強化するという意図を充分に果すことがなかった。

 三、労働組合の組織問題 東京大学 藤田若雄

1 労資関係の型に対応して労働組合の組織及び運営にも型が存在する。
2 われわれは、わが国の労働組合の型を企業別組合・従業員組合・混合組合と規定する。
3 この型の規定は、単なる組織形態の規定でなくて、組合運営・活動運動など、機能の特殊性をも含めて考えている。
4 われわれの規定は、戦後十年の労働組合運動の支配的な傾向(事実・実態)から典型化したものである。
5 窮乏化を問題にするにしても、特殊日本的な型の中で窮乏化が具体的にあらわれるのであって、その具体的なあらわれと組織・運動との関連でとらえられねばならない。
一、立場の視角−労働組合と労働市場−
1 工場委員会と規定しようとする立場があるが賛成し難い。
2 われわれは、大河内教授と共に、特殊日本的な労働市場から立論する。この場合、大河内教授は供給の側面(労働者)を強調されるが、その場合われわれは大河内教授の供給の側面に対する追求の仕方に問題があると思っているが、その点にふれないとしても、そこから、いきなり企業別組織を論定することは無理である。われわれも、供給の側面に立つが、大河内教授よりも需要の側面(資本)を分析し、それとの関連で企業別組織を理解して行かないと組織・運営・運動の特質が充分に把握されないと考えている。
 需要の側面(資本)というのは、労働条件(賃金・時闘・強度・作業環境)、退職金・福利施設などを指しており、それが、家族制度的扶養関係を基底に据えた特殊な構造をもっているということである(資本蓄積の特殊性)。この点から産業別労働組合的闘争の特殊性をとらえて行く。
3 この点から労働組合的機能をとらえると同時に、かような労働条件を労働者が追究することは、当然に、かような労働条件に対応する持殊な職制支配に対決せざるを得ないことになるから、この点から、工場委員会的機能を同時にもたざるを得ないという一貫した理解に立つ。
 この点と、わが国の大企業と中小企業の特殊な関連、特に会社町的存在が多いということ(隅谷教授の半農半工論と関連)とを企業整備反対闘争とあわせてとらえると企闘が地域人民闘争的(町グルミ闘争)とならざるを得ない社会的基盤が明らかになると考える。
 このとらえ方は、フランス、イタリヤの闘争を直輸入しようとする考え方(組合の幹部主義と親和的な組合理論)と対立するし、また、賃闘と区別して企闘の特殊日本的在り方を追究するのであるから、かの抽象的な経営参加是非論議(組合の幹部主義と結合している)とも対立する。
二、企業別組合の展開
 ここでは二六年以降労働組合の実践家が企業別組合脱皮、幹部主義の克服、組織づくりなどという問題を掲げてきていることを意識化し理論化しようとした。(詳細は拙著「第二組合」参照)。
1 欠陥 労働組織と組合組織の癒着。
    組合委員の幹部闘争化の基底。
    政治闘争と経済闘争の乖離。
    政党組織と組合組織の癒着。
2 克服 宇部窒素争議。労闘スト。炭労六三日闘争。
    北鉄協約闘争。日産争議。
    三鉱連一一三日企闘。
    三〇年炭労企闘と三鉱連の長期計画闘争
 以上の争議の中から、脱皮運動・組織づくり運動の本質をとらえる。
3 結論
 組合実践家の企業別組合の脱皮とは、今日までのところでは、企業別組合の充実として考えた方がよい。問題は外国の労働組合と労働者政党との関連で解決されてきている労働者問題がわが国においては、従業員組合と労働者政党のどのような特殊な関連(外国とは異なったさまざまな組織化を行うこと−例えば家族組合)において解決されてゆくかということである。

〔2006年1月3日掲載〕


《社会政策学会年報》第4集『戦後日本の労働組合』(有斐閣、1956年10月刊)による。






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