社会政策学会再建のころ
──内藤則邦さんに聞く
はじめに
── 先ごろ立教大学で開かれた大会の際、内藤さんは、懇親会で乾杯の音頭をとられると同時に、ご自身が『社会政策学会年報』創刊号の「学会記事」を執筆されたこともお話しになりました。内藤さんが学会再建時に実務を担当されていたことは、前にもお聞きしていますが、今日は、改めて当時のことを詳しく伺いたいと思います。
まず最初に、簡単にご経歴をお話しくださいませんか。
内藤 経歴なんて必要ないですよ。
── まあ、そうおっしゃらずに。
内藤 僕の経歴など、学会とは無関係なことです・・・・。
── でも学会本部が東大に置かれていた時に、立教大学ご出身の内藤さんがなぜ事務局を担当されたのかといったことは、ご経歴を伺わないと分からないと思いますから、ぜひお聞かせください。
何時、どこでお生まれになったのですか?
内藤 1923(大正12)年8月20日、福島県田村郡三春町の生まれです。
── しだれ桜で有名な三春ですね。実はこの春、満開の〈滝桜〉を見てきました。樹齢1000年を超える名木、まさに日本一の桜でした。その時知ったのですが、三春の名は梅の春、桃の春、桜の春が同時に来るからだと知りました。洒落た地名のつけかたで、三春の民度の高さ、文化水準の高さを感じました。
いつまで郷里にいらしたのですか?
内藤 1941(昭和16)年に地元の県立田村中学校を卒業し、旧制高校を受験しましたが、恥ずかしながら失敗しました。弁解めきますが、戦時下で高校入試から英語がなくなり、僕の嫌いな物理や化学が必須になったんです。そこで唯一、英語が入試科目だった立教大学の予科に入ったのです。
僕は、中学生のころから当時の「軍国主義的風潮」になじめませんでした。中学3年まで陸上競技部にいたのですが、4年生になった時それが国防競技部と名を変え、それまでスパイクをはいて100メートルを走っていたのに、国防競技と称して途中で軍靴をはきゲートルを巻き、最後は銃剣をつけて走るといったものに変わったので、退部を申し出ました。それが体育教師にとがめられ、「非国民」だと全校生徒の前でぶん殴られました。
僕のこうした傾向は、父親が戦争に批判的だったことの影響かもしれません。三春は歴史的に隣の会津と違い、戦を好まない気風があると親父は言うんですね。三春は戊辰戦争で奥羽同盟に入っていながら、官軍が来ると裏切って会津への道案内をしたのですが、それは戦いを好まなかったからだというわけです。
それと中学時代にもっぱらアメリカ映画を見て、アメリカと日本の生活水準の格差を知っていましたから、そんなアメリカと戦争して勝てるはずはないと思っていたんです。
── 田村中学は、生徒が映画を見るのを許していたんですか?
内藤 いや、自転車で郡山まで出かけて、こっそり見ていたのです。
だから、大学予科の時に学徒出陣で海軍にとられましたが、やる気がない兵隊で、しょっちゅう殴られていました。周囲の学徒兵が戦争礼賛に転向し、仲間を出し抜いて上官の靴磨きをしようとするのにウンザリしていました。ただ幸いなことに、僕は嫌なことをさせられるとすぐ病気になるという特殊な能力があるんですね。訓練でカッターを漕がされると肋膜に水が溜まってしまうんです。そのため、2ヵ月ほど訓練を受けただけで入院し、半年ほどで兵役免除になったんです。除隊後は東京と郷里の間を往復し、戦争を傍観して暮らしていました。
そんな風でしたから、8月15日に郷里で天皇の放送を聞いた時は嬉しくて、「これで我々の時代が来た」と思いましたね。その日の夜行列車で上京し、大学へもどったのです。
大河内・隅谷両先生との出会い
── 大河内さんと出会われたのは何時ごろですか?
内藤 1945(昭和20)年、敗戦の年に経済学部本科に進みますが、大河内一男先生と出会ったのは戦後ですね。敗戦の年の暮れに、初めて大河内先生のお宅を訪ねていますから。戦前から立教大学は東大の出店のようでした。私が学んだ頃の立教大学経済学部は大塚久雄先生と大河内一男先生が中心になっておられました。確かではありませんが、両先生は、一時期、立教大学でも教授会メンバーだったのではないかと思います。ですから私が習った先生方の多くは東大の先生でした。たとえば、西洋経済史は大塚久雄、法律概論や民法は川島武宜、政治学は丸山真男、日本経済史は社研の加藤俊彦の諸先生といった具合です。
大河内先生は立教大学で、社会政策だけでなく、経済原論、社会思想史なども教えていらっしゃいました。もっとも私は社会政策の講義を受講する機会はなかったのですが。ただゼミについては東大のゼミに参加するように言われました。東大の大河内ゼミに立教の学生が参加していたのです。高橋洸、田添京二、大塚斌、久留島陽三氏らが東大のゼミで勉強した仲間です。私はいわば「よそ者」でしたから肩身が狭い思いで参加しましたが、皆さん暖かく迎えてくださり、いまでも感謝しています。
── 間もなく、隅谷さんとも出会われるのですね?
内藤 1947(昭和22)年4月から、お忙しい大河内先生に代わって、隅谷三喜男先生が立教で社会政策を担当されるようになりました。そのとき隅谷先生は、東大ではまだ助手でした。つまり隅谷先生にとって立教が大学での最初の講義だったわけで、私は隅谷先生の学生第一号ということになります。立教の大河内ゼミの仲間と隅谷先生の最初の授業を受け、この先生ならということで、「われわれは大河内ゼミの学生ですが、講義だけでなく、ぜひゼミも開いてください」とお願いしました。隅谷先生は「私は大塚久雄先生の紹介で立教へ来たのだが、そういうことなら大河内先生と相談してみよう」とおっしゃり、大河内先生の方は一も二もなくぜひやってください、ということだったのでしょう。次の週から、大河内ゼミから隅谷ゼミへと看板をかけ変えました。隅谷ゼミではマックス・ウエーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読みました。もちろん僕は東大の大河内ゼミにも続けて参加していました。
── 1948年に研究科へ進学されていますが、これは大学院ですね。
内藤 そうです。1948(昭和23)年3月に経済学部本科を卒業しましたが、両親に頼み込み、研究科に進みました。立教にはまだ正規の大学院はなかったので研究科と称していました。この時、大河内先生は「君だけのために立教へ来るわけにはいかないから、勉強は東大に来てするように」と言われました。ですから籍は立教にありましたが、実際は東大で大河内・隅谷両先生の指導を受けていたのです。また、労働問題調査研究会にも参加して研究会で勉強するほか、郵政現業職員の調査にも参加しました。
そうは言っても、僕はまだ研究者になるなどとは考えてもいませんでした。ですから、研究科修了を前にして、新聞社の就職試験を受けました。その頃は財閥解体直後で、まともな就職先は限られており、新聞社は人気の的でした。朝日は一次ではねられましたが、日経と毎日はなんとか一時試験だけは通りました。6000人くらいのなかで30人程度には入ったのです。しかし最終的には面接ではねられました。仕方がないので、郷里に帰るつもりで、その前に就職試験の結果を報告するために大河内先生にお目にかかったところ、思いもかけず「君に学問を続ける気があるなら私が面倒をみるが、どうだ」とおっしゃってくださったのです。
── 郷里へ帰るつもりだったということですが、ご実家は何をなさっていたのですか?
内藤 家業は味噌醤油の醸造業です。同時に地主であり金貸しでもありました。山田盛太郎の『日本資本主義分析』に「醸造業は土着的、地主的性質をもつもので、これこそは徳川封建制下に蟠踞せし零細農奴寄食の高利貸資本」とあるのを見て、これはまさに我が家のことだと思いましたね。家業は兄が継いでいましたが、帰ればなんとかなるだろうと考えていました。
── つまりすぐ就職しなくても、生活はなんとかなるという状況だったのでしょうか?
内藤 そうです。大河内先生は、徒弟時代は3度の飯を2度にしてでも勉強に専念すべきで、それが出来ないようでは研究者の道は難しいというお考えでした。仲間で早く結婚した者がいて、その生活がなりたつように考えていただきたいとお願いした時に、すごくご機嫌が悪かったのを記憶しています。
そういうわけで、1949(昭和24)年の末か1950年初めには、学生としてではなく東大へ通うようになりました。肩書きは「東京大学社会科学研究所労働問題調査研究会・調査員」。ただし無給で、「肩書き」といっても、調査に行く時のために支給された名刺に記されていただけのものでした。
このとき大河内先生から「僕は忙しいから日常的な指導は隅谷君から受けるように」と言われ、東大経済学部の隅谷研究室の一角に机を与えられ、毎日、隅谷研究室へ通う生活が始まりました。隅谷研究室へ通う生活はその後も続き、1958(昭和33)年に立教大学の専任講師になって研究室を与えられるまでここに通いました。
── 〈労働問題調査研究会〉といえば、『戦後労働組合の実態』をはじめ戦後労働調査で東大社研の名を高めた組織ですね。大河内一男、隅谷三喜男、遠藤湘吉、氏原正治郎、塩田庄兵衛、松本達郎、藤田若雄といった錚々たる顔ぶれが集まったプロジェクトというか、研究所内の研究所的存在だったと言われていますね。
内藤 私は『戦後労働組合の実態』調査には参加していませんが、その後の調査──単産調査、労働争議調査、京浜工業地帯調査、それに郵政従業員の実態調査などに加わっています。毎週金曜に開かれた研究会では、大河内先生が調査の理論仮説を述べたのをはじめ各研究会員が報告し、また労働組合の活動家の話を聞くなど活気にあふれており、たいへん勉強になりました。
それに、この研究会は単なる研究組織ではなく、翻訳のアルバイトを世話してくれたり、メンバーが家を建てるときには相互に金を貸したり借りたりしあう、いわば「生活共同体」的な側面ももっていました。
社会政策学会の再建をめぐって
── 内藤さんはこの〈労働問題調査研究会〉の調査員としての仕事のほかに、社会政策学会の実務も担当するように大河内さんから言われていたわけですね。
内藤 当時、大河内・隅谷両先生の間でどのような相談が出来ていたのか僕には分かりませんが、隅谷研究室に机を与えられた時から、社会政策学会の実務は内藤にやらせるということが、両先生の相談で決まっていたのだろうと思います。ですから、社会政策学会が発足する前、準備段階の最初から実務を担当しています。
── 社会政策学会が戦後になって再建された経緯については、内藤さんが『学会年報』第1輯の「学会記事」に書かれ、また大河内、隅谷、氏原の諸先生が、大河内一男『社会政策四十年──追憶と意見』(東京大学出版会、1970年)で語っておられますね。
内藤 大筋はあのとおりです。なんと言っても学会再建の機運をたかめたのは〈社会政策本質論争〉でした。東北大学の服部英太郎先生が大河内先生の社会政策論を批判されたことに始まる論争です。この論争には他にも数多く研究者が参加し、これによって共通の研究関心が生まれ、研究者間の交流も活発化したのです。
学会再建の直接のきっかけとなったのは、1950(昭和25)年1月に京大の岸本英太郎さんが上京して大河内先生と面談され、その折、社会政策学会の再建が話し合われたことでした。岸本さんの上京目的も「本質論争」をめぐる研究会で報告するためでした。この大河内・岸本会談後すぐに、学会再建が動き始めます。最初は、大河内一男、岸本英太郎という、東大と京大の社会政策講座担当のお二人の連名で、社会政策学会再建準備会への参加呼びかけの手紙が、次の8人の方に出されたのです。東北大の服部英太郎、一橋の井藤半彌、慶応の藤林敬三、早稲田の平田富太郎、専修の大友福夫、九大の森耕二郎、大阪商大の近藤文二、それに東大の隅谷三喜男。
この呼びかけの手紙を出す作業の段階から、私は実務に携わっています。その後、3月26日に学会結成準備のための懇談会が開かれ、そこでこの10人が創立世話人になることなどが決められます。ついで5月に再度創立世話人会が開かれ、隅谷先生が起草した会則案や趣意書案などを審議し、7月8日に慶応で創立大会を開くこと、翌9日に東大で報告会を開くことなど、学会結成の基本方針が決まりました。
この間に、大河内さんが旧社会政策学会の理事だった大内兵衞、上野道輔の両名誉教授に話をつけ、その名称と財産を引き継ぐことで合意をみていました。
── 旧社会政策学会理事との折衝の場にも内藤さんはお出になったのですか?
内藤 いや出ていません。それは全部大河内先生がおひとりで処理されました。その名称と資産を引き継ぐことで合意をとりつけたのです。その時まで、戦前の社会政策学会は解散しておらず、名目的には存続していたのです。会計を担当されていた上野道輔先生は、この申し入れをたいへん喜ばれたそうです。旧学会の遺産の処理が片付いたということでしょう。
大河内先生の『社会政策四十年』では、旧学会の資産は千三百円と書かれていますが、僕の記憶に間違いがなければ、もうすこし多かったと思います。本郷郵便局で、そのお金をおろしたのは僕ですから。大正末の千三百円は家が一、二軒は買える額だったはずですが、戦後のインフレの結果、僅かな金額になっていました。社会政策学会の入会金が200円、年会費が100円ですから、4、5人分にしかならなかったわけです。
── そうすると、内藤さんは会計係というか経理も担当されたわけですね。
内藤 そうです。
── その他には、どんな仕事をなさったのですか?
内藤 学会の事務に関すること全てといってよいでしょう。名簿作り、会合の連絡、大会の設営、会議の記録をとることなど、学会の事務はほとんどすべて私がやりました。短時間で大量の仕事をこなさなければならない場合、たとえば大会案内を送る際の宛名書きなどは、労働問題調査研究会の「無給調査員」仲間にも手伝ってもらったと記憶していますが。
── その頃はパソコンやコピー機があったわけじゃないから、宛名書きなどは大変だったでしょうね。
そういう仕事を手伝ってくれた「無給調査員」には、どなたがいらっしゃいましたか?
内藤 秋田成就さんと戸坂嵐子さん──哲学者の戸坂潤のお嬢さん──です。もっとも、秋田さんは間もなく社研の助手になりましたが。ただ、彼らは、僕ひとりではとても手が回らない時に頼んでやってもらったわけで、逃げる自由はありました。僕とは違って義務ではありませんでした。
── いちばん大変だったのは何ですか?
内藤 再建前の仕事では、案内状を発送すべき人をリストアップして、住所を調べることでしたね。人選の方は、大河内先生はじめ発起人の皆さんが名前をあげられ、それを手がかりにしました。しかし、住所調べは大変でした。戦争による空白期間があり、皆さん疎開されたり焼け出されたりで、古い住所録が役に立たず、往生しました。送っても返送されてきて、ずいぶん苦労しました。
第1回大会で、入会申込書に勤務先や自宅の住所などを書いてもらいましたし、学会発足後は自発的に入会を申し込んでこられる方もいたので、だいぶ楽になりましたが、最初の大会準備のときは大変でしたね。
── 第1回大会は1950(昭和25)年7月8日と9日、慶応と東大で開かれたわけですが、当日、内藤さんは何をなさっていたのですか?
内藤 会費集めですね。入会申込書を書いてもらったり、入会金と会費をもらって領収書を発行しましたね。「東京大学経済学部研究室内・社会政策学会」という印をつくって、それを領収書に押しました。
それと、大会前の準備も大仕事でした。何しろ年2回の大会はすべて本部から案内状を出したのですから。それに設営も僕の仕事のひとつで、関西で大会が開かれた時などには何日も前から乗り込んで、看板や〈めくり〉の指示を出したりしましたから。
その頃のことですから、京都に行くのにもずいぶん時間がかかり、だいたい夜行列車で行きました。それにひとつの大会で1日目は大阪、2日目は京都というように2つの会場を使いましたからね、準備作業も2倍かかったのです。
── その頃だと、ホテルに泊まるといったことはないでしょう?
内藤 京都では、大阪市大の小川喜一さんの家に泊めてもらいました。東山区にありましたが、実に立派な家なのですよ。「ずいぶん良い家だね」と言ったら、「これは僕の家じゃない、京都市長の高山義三さんの家の留守番を頼まれて住んでいるんだ」、と言ってました。小川さんが治安維持法で捕まった時の弁護士が高山さんだった縁だとのことでした。
── 学会事務については無給だったのでしょうが、そうした大会準備のための旅費はもちろん学会から出たのでしょう?
内藤 いいえ、全部自腹でした。
── 本当ですか?
内藤 一銭も貰っていませんよ。誰もそんなこと気にもしてくれなかったですね。きっと金には困っていないと思われていたのでしょう。それに社研の労働問題調査研究会にいるとILO条約の翻訳といったさまざまなアルバイトの仕事がまわって来ましたから。
金のことといえば、先ほども言ったように会計事務が大きな仕事でした。僕はずいぶん一生懸命にやったらしい。なにしろ、一橋の財政学の大家で創立世話人のひとりである井藤半彌先生が第3回大会に見えた折、「先生はまだ入会金を払っておられません」と言って金を貰った。「社会政策学会の会計係は有能だ、僕の顔を見たらすぐ入会金をまだ頂いていません、といって入会金までとられた」と笑って話されたそうです。これは後で太陽寺順一さんから聞いた話ですが。
もうひとつ、春の大会の頃に、毎年、名簿を作成しました。この原稿作りがまた大変でしたね、ぜんぶ手書きですから。原稿が出来ると講義プリントを作っているガリ版屋に持って行って、印刷してもらいました。案内状などの発送にはこれを使いましたから、名簿の作成も大事な仕事でした。
── 『社会政策四十年』で大河内さんは、ゼミ生だった高橋洸さんが日本評論社で働いていたので、学会の準備段階の会合にしばしば日本評論社の会議室を使わせて貰い、高橋さんには雑用をしてもらったと述べておられますね。
内藤 高橋洸さんは、日本評論社で『経済評論』の編輯部にいましたから、「社会政策本質論争」の仕掛け人のひとりだったのかもしれません。前にも言ったように〈社会政策本質論争〉は学会再建の機運を高めた背景としてとても重要ですから、その意味では高橋さんは大きな役割を果たされています。しかし、高橋洸さんが日常的に学会の雑用をしていた事実はありません。
また大河内先生が回想のなかで仰っているように、学会の準備会合に日本評論社を使わせてもらったことはあります。でも日本評論社よりは東大経済学部3階の会議室を使ったことの方が多かったと思います。それに日評の場合も、会議室ではなく応接室だったと記憶しています。会議室は研究会のような、もっと大きな会合に使ったことはありましたが。
高橋さんは、日評の社員としての仕事があったわけですから、日評で会合を開いた時には雑用もなさったとは思いますが、日常的に学会の実務を頼んだことはありません。
── そうしますと、学会再建の際にいちばん中心となり、看板として担がれていたのが大河内さん、ついで事務局長挌の隅谷さん、その下で内藤さんが実務を担っていたという構図でしょうか?
内藤 大河内先生は単に担がれているといった存在ではありません。社会政策学会の再建について発起され、その後も積極的に運営に関与されていました。
── その際、事務局長役を期待されていたのが隅谷さんだった?
内藤 隅谷さんは事務局長というより、相談役というか、もっと偉い立場だったのじゃないかな。
── 事務局長なら偉いでしょう。創立の際に趣意書や会則を起草したのは隅谷さんだったわけですよね。
内藤 趣意書を起草したのは隅谷さんですが、それにも大河内先生はずいぶん手を入れています。隅谷さんが「大河内先生もずいぶん細かいね」とおっしゃっていたのを記憶していますから。創立の際は、隅谷先生も小さからぬ役割を果たされていたと思いますが、再建後の学会運営についていえば、私はほとんどすべてを直接、大河内先生から指示を受けていました。もちろん大河内先生はたえず隅谷先生と相談されていたでしょうけれど、隅谷さんが事務局長的役割を果たしていたわけではありません。僕はいつも大河内先生の意向を受けて動いていたのです。
── そう言えば、創立世話人10人のなかで、隅谷さんだけが幹事になっていませんね。今日持ってきていただいた昭和26年5月と27年の名簿を見ると、会則にはない「常任幹事」のポストがあり、大河内一男、岸本英太郎、近藤文二、服部英太郎、藤林敬三の5人が名を連ねています。ほかに「幹事」として有泉享、小林喜楽、新川士郎、竹中勝男、平田富太郎、森耕二郎、山中篤太郎の7人、「常任幹事」とあわせると幹事が12人、他に監事として大友福夫の諸先生の名が記されています。ただ、この中には隅谷さんの名がありません。東大からは隅谷さんの代わりに有泉享さんが創立世話人外から幹事になっています。おそらく労働法研究者への配慮だったのでしょうね。
内藤 それに隅谷先生は東大では社会政策ではなく、工業経済論の担当でしたから、そのこともあったのでしょう。
── この名簿を見る限り、学会運営の中心は常任幹事会だったと思われますが、どのくらいの頻度で開かれていたのでしょう?
内藤 そんなに頻繁には開いていません。なにしろ岸本、服部、近藤の諸先生は東京に住んでいらしたわけじゃないし、当時の交通事情は、とても今の方には想像もつかないと思いますが、最悪でしたから、年に何回も集まるといったことは不可能だったでしょう。常任幹事会も、大会の時しか顔をあわせる機会はなかったと思います。それに、決めなければならないこともそれほど多くはありませんでした。
なんと言っても社会政策学会は大河内先生が中心となって再建されたのであり、東大が本部の時代は、大河内先生の意向が大きく働いていました。もっとも、常任幹事のおひとりである慶応の藤林敬三さんとはよく相談されていました。何のときだったか、大河内先生の指示で、私は学会の用件のために、鎌倉の藤林さんのお宅を訪ねたことがあります。奥様がお留守で、先生ご自身がお茶をいれてくださり恐縮しましたが。このように、大河内先生は藤林さんを重視されていました。
── そういえば、『社会政策四十年』のなかで大河内さんは、「私は個人的にいって亡くなられた藤林さんと、その当時議論する機会が多かった」(305ページ)と言っておられますね。
大河内親方のもとでの徒弟奉公
内藤 いずれにせよ、社会政策学会関係の実務が、徒弟時代の僕の仕事で大きな比重を占めていました。隅谷研究室に同居していたわけですから、隅谷先生が弁当をつかう時のお茶くみくらいはしました。しかし隅谷先生は私的なことで僕に用事を頼むことはありませんでした。公私を混同されることのまったくない方でしたね。東京女子大での隅谷先生のご葬儀の際、奥様が「隅谷は聖書が着物を着て歩いているような人だった」とご挨拶なさいましたが、けだし名言です。その分、ちょっと窮屈でしたが。
ですから僕は、労働問題調査研究会のメンバーのなかでも、隅谷先生より氏原正治郎さんや遠藤湘吉さんと親しくなりました。とくに遠藤さんとは労働組合調査で組合財政をいっしょに調べただけでなく、私的にも親しくしていただき、遠藤さん夫妻がご両親の介護のために家を空けられた時には、留守番まで頼まれました。遠藤さんはお酒好きで、しょっちゅう介抱させられましたね。僕はまったく飲めないのですが。
── 大河内さんとの関係はいかがでしたか?
内藤 大河内先生は、隅谷先生とは違い、私に私用もいろいろと命ぜられました。大河内先生は旅がお好きでしたが、旅行先で研究室にある本が必要になると、葉書で私に頼んで来られました。ですから軽井沢や伊豆の宿など、あちこちに本を届けることもしました。
それだけに、先生は私に目をかけてくださったと思います。僕が、処女論文である「英国団結禁止法の社会政策的意義について」(『立教経済学研究』6巻1号、1952年12月)をまとめた時には、大河内先生は実に丁寧に読んでくださいました。文章に赤を入れ、再検討すべき箇所を指摘され、文献の入れ替えなども具体的に指示してくださいました。秋田成就さんには、「君のは出来が悪いから先生は心配して良く読んでくれたんだよ」と冷やかされましたが。他の人に聞いても、これほど懇切な指導を受けてはいないようです。要するに大河内先生と私の関係は、親方と徒弟の関係でした。だから社会政策学会の仕事をすることなど私には全然苦にならなかったですね。むしろ楽しかった。意図したわけではないのですが、早くから学会では「知名の士」になってしまいましたしね。
── とすると、内藤さんは、学問的には隅谷さんより大河内さんから学んだところが大きいのでしょうか?
内藤 そうです。私は今なお大河内先生の弟子だと考えています。
── なるほど。実は私は今日のお話を伺うまでは、内藤さんが学会の実務を担われるようになったきっかけは、隅谷さんとの関係が大きかったのだろうと想像していました。つまり大河内さんのもとで隅谷さんが学会再建の事務局長的役割を果たし、隅谷さんは、学生第1号である内藤さんに白羽の矢をたてたのであろう、そう考えていました。しかし、お話をうかがうと、内藤さんが選ばれたのには、大河内さんの意向がより強く働いていたようですし、社会政策学会における隅谷さんの役割も再建当初だけで、その後事務局長役を果たされていたわけではないのですね。
内藤 そうです。大河内先生はすぐれた研究者であると同時に大勢の弟子を育てた教育者でもあったのですが、なぜかあの頃、助手的な方はいませんでしたね。その頃だと大河内ゼミ出身者では田添京二君や久留島陽三君が大学に残っていたのに、彼らではなく私がなぜ「鞄持ち」に選ばれたのか分かりません。いずれにせよ、私は大河内先生から言われて、社会政策学会の事務を担当し、また先生の私用もつとめる助手となって「徒弟奉公」をしたのでした。
── そうですか。とても今の世代では考えられないような人間関係ですね。
ところで、内藤さんは、学会の仕事をいつまで続けられたのですか?
内藤 3年間で6回の大会に関わりましたから、1952(昭和27)年の終わりか53年の初めまでですね。大阪と神戸で開かれた秋の第6回大会の時か、その直後の幹事会の時かに、僕は「ちょっと聞いていただきたいことがある」と発言を求めて許されました。「この3年間事務を担当してきたが、もう限界です。そろそろ代えていただきたい」と申し出たんです。その年の4月にはすでに高崎経済短大に専任講師として就職していたものですから、草臥れ果てていました。その時、すぐに慶応の藤林敬三先生が「それはそうだ。内藤君ひとりにやらせるのは大変だ。俺んとこには若い者がいるから、今度は慶応で引き受けよう」とその場で言ってくださった。これで助かりました。もし引き受け手がなかったら大悶着になるところだったでしょう。
ところが慶応に移った後で、隅谷先生から叱られました。「何で一言の相談もなしに、あんなことを言ったのか」と。今になって思えば、あらかじめ相談しないで持ち出したのは私が悪かった。おそらく隅谷先生にすれば、旧社会政策学会のように、学会本部はずっと東大経済学部に置くべきだというお考えがあったのでしょう。
結局、慶応も2年ほどで早稲田に移り、その後は回り持ちになりましたけれど。
── 年2回の大会、それも二つの会場を使う大会を、実務担当者ひとりで全部準備するのは無理ですよね。
内藤 そう。しかもこの年に『社会政策学会年報』が創刊され、その編集の仕事も増えましたから。
── 年報の創刊が提起されたのは1953(昭和28)年6月に中央大学と一橋大学で開かれた第3回大会の時だと、『社会政策学会年報』第1輯の「学会記事」で内藤さんが書かれていますね。これにともない会費が100円から200円に増額され、「この第三回大会以後幹事会の努力が年報発行に傾けられることとなった」と記されています。
内藤 第1輯では、藤本武さんが長い原稿を出してこられ、こんなに長いのをどうしようと言いながら編集した記憶があります。その頃は印刷事情が悪かったから、大会で発表したい人にはなるべく報告させようというのが上層部の意向だったですね。
第7回大会から何の義務もなしに大会に参加し、この時はじめて学会はこんなにも楽しいものかと思いましたよ、ほんとに。
── 今日は、いろいろと興味深いお話を有難うございました。これまで、ほとんど記録にとどめられていない新しい事実を知ることが出来、たいへん有意義でした。
〔2006年7月27日、聞き手・文責:二村一夫〕