伊藤 セツ
インドをたった「8日間」旅して
I
「貧困の現実の深刻さとそれを『問題とする社会の態度』はかならずしも一致しない」と岩田正美さんはこの欄で書いた。そう。私は、岩田さんの言う「貧困の現実が圧倒的であっても、それを社会問題とはしない」方の国インドで2002年の年明けを迎えた。「日本からヨーロッパへじかに飛んだ人は──」と、堀田善衛は『インドで考えたこと』で45年も前に書いているが、その「ヨーロッパへじかに飛んだ」部類の私は、「インドを見なければ」とずっと思ってきたが、機会がなかった。そこで、昨年末某旅行会社の「インド8日間」というツァーに申し込んでしまった。こういう仕方で外国に行ったのは始めてである。暮れの仕事をみな放り出して、研究室から成田に向かう直前、私は院生に図書館から、何でもいいからインドの古典を借りてきて欲しいと頼んだ。自分で選ぶ暇も無かった。
成田で、エア・インデイアは、機材の関係で8時間遅れと知らされた。ここからがすでに私のインドであった。実際は10時間半遅れたのだが、私にはもうどうでもいいことだった。院生が借りてきてくれた中村元選集の1冊『ヒンドー教と叙事詩』を取り出した。待合室のベンチでむさぼり読んでいるうちに私から時間の感覚がなくなった。気がついたら「デリー空港は霧で着陸できない」との機中放送があって、ムンバイに着陸してしまった。今度は、東洋文庫の『ラーマーヤナ』第一巻を取り出した。こうしてデリーに着いたときは、すでに、「8日間」の旅の二日目の夕方であった。空港でじっと待っていたインド人のガイドは、3ヶ月ぶりの仕事だといって、私と夫と茨城からきた男女の2人組のたった4人という淋しいツァー客を歓迎し、車で第三日目の目的地ジャイプールへ直行した。
途中で日が暮れたが、この城壁の街は、聞きしに勝る光景で私たちを迎え入れた。旅慣れしている同行の2人組も「ああ、牛が交通整理をしている!」と感嘆した。第四日目はアーグラとタージマハール。イスラムの世界に引き入れられ、今度は『ムガール帝国誌』に移る。第五日目、2001年最後の日は、アーグラ駅発の列車に乗り、ほぼ1日がかりでムガールサライ駅に着いた。同じコンパートメントでインド中流家族の8歳と9歳の賢い兄妹と交流したが、この子たちの世代が、インドの将来を変えることができるだろうか。
第六日目は2002年1月1日であった。早朝ヒンズーの聖地ヴァーラーナスィーのガートから小舟に乗って、ガンガーから登る初日を見た。霧に閉ざされたガンガーであった。仏教の聖地サールナートがここからほど近くにあることが、私には不思議に思われた。
兎も角も北インドを陸路東に旅して、コルコタ(カルカッタ)がコースに無いのは残念であったが、ヴァーラーナスィー駅から夜行列車できた道を逆にデリーに向かった。新幹線なら4〜3時間ぐらいと思われる距離なのに、列車は数時間走って突然不自然に停まった。しばらくして車輌が脱輪したということが伝えられた。脱輪した車輌の後ろの車輌にいた私たちは、今来た方向に逆に走り、どこでデリー方向に向かったのか皆目わからないまま、結局24時間も列車の中で過ごすはめとなった。私は悠々と『ラーマーヤナ』第二巻を取り出し、時間を感じない世界に浸った。もう第七日目に入っていた。しかし、私は列車が遅れようが、もうどうでもよいことだった。こんな贅沢は私の日常ではとうてい味わえない。ガイドが何度も横に来て、「今ラーマが何をしているところ?」と聞く。脱輪した車輌から移ってきて同席したインド人のビジネスマンが、私がラーマを読んでいると知ってなぜか大笑いした。
列車がどこかの駅に止まったとき、突然、ターバンを巻いた男性が乗り込んできて、「降りてください」と日本語で言った。テロでも起きたかと思ってわけもわからず、荷物を床から引き出して降りた。列車が動き出した。別の車輌に居た同行者はどうしたかと探したら、なんと動き出した列車から荷物ごと飛び降りたのである。荷物が盗まれないよう鎖で結んで南京錠をつけて寝ていたら「降りろ」と突然いわれ、旅慣れた彼らでも手が震えて鍵をうまく操作できなかったといった笑った。ターバンの男性は、私たちが帰りの飛行機に遅れないよう、デリーから車をとばして列車を探しに来た旅行会社の人であった。途中空港と携帯電話のやり取りで、結局また飛行機も遅れるということで無事機上の人となった。以上が4半世紀以上前、「ヨーロッパにじかに飛んだ」ので、インドに行かなければと思い続けた私の、インドのとても面白い「8日間」であった。まあ、このくらいの経験なら、旧社会主義国(それは他ならぬヨーロッパであったが)で私は何度もしてはいる。
U
今回、私はあまりに短い旅行でインドでは考える間もなかった。ガンガーで日の出を見ながら何か考えようと思ったが、まず少女が何人かついてきて、ガンガーに流すろうそくを買って欲しいという。早く舟に乗りたかったので10ルピー(34円ぐらい)で買った。今度は小さな水瓶を売りに来てガンガーの水をこれに入れて帰れという。それは断った。やっとガートを滑り出したと思ったら、ボートが近づいてきて、青年が缶に入った魚を買えという。私はどうしてここで魚を買わなければならないかわからなかったが、ガイドが、それは聖なる魚なので買ってガンガーに戻すのだという。それではと手で一匹を掴んだら、缶を逆さにしてそのまま流せと言う。5匹で50ルピー。魚はまたその青年に捕らえられて、誰かに売ってまた流す──。これは、宗教的儀式か、インフオーマル労働か。葬式の人々が遺体を橙色の布で包んで担架に乗せて、何か大きな声で唱えながら火葬場に着いたのが見えた。遺体を載せた担架がガンガーの水に浸されていた。火葬場からはすでに煙がたちのぼっていた。『深い河』のシーンである。舟から降りて、ヒンドウのお寺の並ぶ小路を歩いた。小路は、牛や豚や犬やさまざまな動物が一緒に歩いており、その糞がそこかしこにあり、食べ物のくずや、ごみやその他何かわからないものが捨ててある。そして喜捨を求める、振り払う以外に方法の無い手、手。
帰国してメールを開いたら、なんと200年もインドを収奪していた大英帝国に今いる岩田正美さんから新年のメッセージが入っているではないか。旅の中で、ムガール帝国の城を見物中、「ここに埋め込まれた金は、ダイアは、── は、みんな東インド会社が持って行った」という説明を何度もガイドがしていた。それに、私は冬休み明けのある科目の講義で、「アジアの社会福祉」を講義しなければならなかった(なぜそういう講義をしなければならないかは私に聞かないで欲しい。幸福な大学の先生方には説明してもわかってはもらえない)。冬休み前は「欧米の社会福祉」をやった。「欧米」の筆頭にいつもイギリスがあがるが、「アジア」にはインドは決して出てこない。インドは、喜捨とマザー・テレサ流のボランティアがそれなのか。イギリスの貧困研究は、旧植民地の貧困研究と関わらないのか。わからなかった。
「インド8日間」で、ツァーの旅人たちは、喜捨を求める無数の子ども、母親、障害者を見た。北インドの冬の寒さの中でどこからか拾ってきたほんのわずかの薪を燃やして暖をとっている路上生活の家族たちを見た。インフォーマル労働とも言えない類の何かの行為でわずかばかりのルピーを貰おうとしている多数の人びとを見た。駅で赤い服を着て荷を担ぐポーターの信じられぬほどの細い脛を見た。線路のすぐ横にボロをまとって死んだように寝ている人びとを見た。堀田の岩波新書から50年近くたっているというのに、この状態は変わっているとは思えない。客のこない店やレストランでただ立って待っているばかりの雇われ人。このようなインドは、書き尽くされ、旅人のすべてがこうした情景を見ている。インドはこうした状況をどうしようとするのか。「貧困の現実の深刻さとそれを『問題とする社会の態度』はかならずしも一致しない」と岩田さんは書いた。なるほど。しかし、なぜ?
私は、意図的にそうしているわけではないが、旧植民地とその支配国を旅することがある。どちらが先とは決まっていないが「ヨーロッパにじかに飛んだ」私は、やはり、旧植民地の方が後という組み合わせとなることが多い。「欧米の社会福祉」と「アジアの社会福祉」というふうに、ある資格取得の必修科目の指定テキストで、「社会福祉」をキーワードに併置されると、ますます旧植民地から支配した国が奪ったものは何? プラスとマイナスの残したものは何? と気にならなかったらおかしいだろう。
V
社会政策学会ホームページが程なく5周年になるとUSAにいる二村元代表幹事からもメッセージが入っていた。5年前を思い出す。あれは、高田一夫会員が代表幹事のときだった。第17期日本学術会議の会員候補をどうするかということで、幹事が急遽「如水会館」に召集された会議の時と思う。社会政策学会がもっと外に発信しなければならないという議論の中で、「ホームページを立ち上げるのはどうだろう」と私が発言した。それを聞いていた二村先生の太い眉がピクリと動き、あっという間にホームページが開設された。そのあと私が代表幹事になったときは、最初からすべてがホームページ中心に運営され、多くの情報が内外に公開された。私は二村先生に感謝している。そんなことを考えながら二村先生に返事を書き、インドのことも少し付け加えた。それからほどなく二村先生から、岩田さんの《通信》をホームページに載せたこと、そのあとをうけて何か書くようにメールがきた。
学会ホームページ5周年の新企画の滑り出しに賛同し、岩田さんの次を繋ぎたいと思った。二村先生は、次に書く人を指名せよと言ってきた。私は二村先生の、天晴れなUSAでの生活ぶりをぜひ書いていただきたいと思う。では宜しくお願いします。
伊藤セツ (Setsu Ito)
昭和女子大学女性文化研究所(Institute of Women's Culture)
〔2002年2月1日寄稿〕