社会政策学会史料集





社会政策学会弁明書をめぐる論争

田口卯吉「社会政策学会の答弁を読む」

旧臘発兌の経済叢書に「東京経済雑誌と社会政策」と題する一文あり、葛岡信虎氏が社会政策学会を代表して我が経済雑誌の所論に答へたるものなり、盖し我が経済雑誌が社会政策学会諸子の弁明に対して批評を試みたるは去年七月二十日の事にてありき、然るに爾来五ケ月の星霜を経過して此の答辞を聞くは、余輩私に其の考究思案の余り長きに驚かざるを得す、之に関して葛岡氏に弁明の辞あり、曰く
 社会政策学会が諸氏に対して反駁を為さざりしは、諸氏の自思自覚するに任せて可なりと認めたるに依る、(中略)近頃東京経済雑誌を看るに、其の時事評に於て社会政策会が同雑誌記者の所論に向ひ、堂々反対し来らざるを怪むを記せり、然らば則ち該記者は今に至るも猶ほ未だ誤惑の念を排脱する能はざるに似たり、余輩も亦社会政策学会の員に列するもの、此の際に方り数言の弁を費さずんばあるべからず云々
葛岡氏は辞柄に巧みなるものなり、盖し此の如き長日月を要したる答弁に対しては、此類の語を用ひされば面目立たざることなり、然れども余輩が此の時事評を為しこれより既に二ヶ月許を経過したりしに、葛岡氏が之を近頃と称するは何ぞや二ヶ月は君に於て近頃なるか、要するに社会政策学会諸氏は長日月を有するの人たらざるべかざるなり、

社会政策と社会主義
葛岡氏は最初社会主義と政策との区別を説きて、去年五六月の頃阿部磯雄氏が毎日新聞に寄せたる書に対し余輩が賛同を表したるを駁撃せられたり、是れ亦既に半歳以上を経過せしことなれば、読者諸君の記憶を離れたるべきに付き、余輩は先づ其の主意の要領を掲けて読者の記臆を喚起せざるべからず、盖し阿部磯雄氏の主意は「社会主義の綱領とせるもの大約社会的政策と相同し、曰く工場法の制定、曰く女工幼工の保護、曰く労働時間の制限、曰く労働保険等全く同一なり、唯々社会主義者は結局土地資本を公有にせざれば社会の弊源を除く能はずと云ひ、社会政策論者は土地資本を公有にせずとも、弊害を除くを得べしと云ふに過ぎず、其の理想とする所異なりと雖も、目下施さんと欲する所の方策は全く同一なり、譬へば社会政策論者は京都まで旅行すべしと云ひ、社会主義者は神戸まで旅行すべしと云ふが如し、其目的地は異なりと雖も、行路の大半は同一なり、故に同行すべしと云ふにありしなり、余輩は阿部氏の要求の理由あることを認めたり、故に余輩は社会政策学会諸氏に向て其同行を勧告したりしなり然るに今葛岡氏の説を聞くに曰く、
 曰く工場法制定、曰く女工幼工の保護、曰く労働時間の制限、曰く労働保険、凡そ之に類するものは我か社会政策の主張に係る、而して直に之を取りて社会民主党の綱領に加ふるを見るに、此程の方策は現今の経済組織と常に並立すべきものたり、今の経済制度と相反するものにあらず、数世之を行ふも今の経済制度の要素たる自由競争と、私有財産は依然として存続すべく、決して彼の党の人々が理想する所の資本家絶滅、土地資本の公有の域に達し得べき理なし故に社会政策を以て社会主義に達するの一段階となすは、畢竟するに妄想にあらざれば忍んで自ら欺くの陋を学ぶものと云はずんばあらず、(中略)思ふに社会民主党一味の人々は或は直前勇往其の理想を実行するの気に乏しく、或は之を実行するの方案を造る能はず、或は自己に不抜の確信なきが為に、一時社会政策の主張を其綱領に代て人の視聴を惹き、後に至りて何にか計画せんとするにあらざるか、(中略)両者は目的に理想に全く相反す、たゝ偶々手段に同きあるを見るのみ、而して手段の同きに出たるは社会民主党の妄用又は誤用に由りて然るのみ、両者は決して同一の線路を行くものにあらず、(下略)
余輩は今労働時間制限等の綱領は、社会政策論者が先づ之を唱へて、而して社会民主党之を自己の綱領となしたるか、將た(社会民主党)先つ之を唱へて、而して社会政策論者之に賛同したるかを問はざるべし、余輩は今夜業の禁止、若くは労働時間の制限等は果して自由競争と並行すべしと云ふを得べぎや否やを問はざるべし、唯余輩が問はんとする所は、社会政策論者の工場法は社会民主党の工場法と同一ならざるか、社会政策論者の夜業禁止と、社会民主党の夜業禁止とは相異なるや」と云ふの点に存するなり、均しく工場法を立つるなり均しく夜業を禁止するなり、均しく労働時間を制限するなり然らば則ち余輩か両者に向ひて同行を勧告するも豈に不当と云ふを得んや、其の目的を云へは一は之を以て一段階となし一は之を以て終局となすの差あるべしと雖も、此法律の干渉を希望するや一なり、槌を以て人を殺すも刀を以て人を殺すも、人を殺すは一なり、博奕して羊を亡ふも、読書して羊を亡ふも、羊を亡ふは一なり、故に余輩が今自由放任主義を主張し、夜業禁止、労働時間制限の不必要を論ぜんとするに当りては毫も両者の間に区別を立つべきの理由を発見する能はざるなり、社会政策論者は社会民主党と同行を嫌ふと雖も同一の法律を立てんことを主張する以上は、余輩は之を同視せざるを得ざるなり、

極端なる利己心と尋常の利己心
余輩は曩きに「極端なる利己心は却て政府が法律を以て労働に干渉する場合に発することを述べ、譬へば製造主が奴隷を使役し、其の随意に定めたる賃銀を以て貨物を製造するが如き、職工団結して政府に迫り、婦女小童若くば海外より低廉なる労働者を傭使するを禁じ、以て賃銀を騰貴し、若くは就業時間を減縮せんとするが如きは、是れ政府が法律を以て労働問題に干渉する場合に於て発するものなり、自由競争の場合に於ては此の如き隴断独占の弊なし」と、之に対して葛岡氏は奴隷制度の場合の如きは過去の悪制にして、今に於て喋々するの要なしとし、職工団結の場合に就いては左の如く云へり、
 職工団結して不当の要求を政府に迫り、政府之を納れて法律を定むるが如きことあらんや、是も亦立法の弊なり、余輩は此の如き弊を除き自由競争の利を収めんことを期す、即ち公共の利益と国家の必要とを商量打算し、相当の範囲に於て或は立法により或は個人の尽力により、之か救済を図らんと欲す、法制を以て極端利己心の発動を助長するは余輩の主義にあらず、(何人も此の如き主義を有するものあらざるべし)社会政策の本領にあらず(如何なる学会も此の如きことを本領とするものあらざるべし)職工団結して政府に求むる決して非ならず、製造主の資本家相結ひて其の利害を防衛すると何ぞ異ならん、要は其の請求の当、不当、其の行動の正、不正を問ふべきのみ、記者が挙示したる職工団結の例の如き、若し不当の要求ならんか、断して非なるも、正当の理由存せば、却て資本労働調和を生するの良法たるべし、法律を以て婦女小童の労役を制限若くは禁止するが如きは、制度事宜に適し、施行其の方法を愆らずば、或は社会の風教を維持するに於て、或は将来に生産力を増し、堪能なる職工を養成するに於て必ず稗益する所あるなり」と、
余輩は此の文を読みて其の要請を得るに苦む、不当の要求の非なるは喋々を要せず、制度事宜に適し、施行其の方法を愆らすば良結果なるべきことも亦喋々を要せす、是れ悪法を悪なりと云ひ善制を善なりと云ふが如し」何ぞ殊更に論弁せん、余輩が之に反対する所以は、此の如き法は如何なる時に於いても如何なる所に於ても悪結果あるものなりと云ふにあり、其の要求は初より不当の要求なりと云ふにあり、「制度其宜しきに適し施行其の方法をら愆ず」と云ふが如き事は此の悪法に於て求め得べきものにあらず」と云ふにあるなり、請ふ更に其の理由を説明せん、夫れ職工団結して婦女小童の労役を禁止せんことを要求し、政府之を納れて法律と為すときは必ず左の結果あることなり、
 第一 職工婦女小童の低廉なる労働の競争を排斥し得たるを以て、其の賃銀を騰貴することを得る事
 第二 婦女小童は其の職を得る能はざるを以て、餓死すべき事
 第三 資本主は賃銀騰貴の為に損失すべき事
此の法律制定の下に此の如き結果あることは免るべからざることなり、此の如き結果あるが為に、職工は団結して政府に要求することなり、然らば則ち制度其の宜きに適し施行其の方法愆らずと云ふが如きは、此場合に用ふべき語にあらざるにあらずや、葛岡氏は施行其の方法を愆らずば此法律の下に此の如き結果なきことを断言するを得るや否や、
外国の低廉なる労働者を傭使するを禁せんとする事に関して葛岡氏の弁明は更に奇なり、曰く
 外国労働者の傭使を制禁するが如きも、時と場合とにより正理の必要存することあり、強ち之を指斥し、極端利己心の発動と為すべからず、但余輩は米国加奈太の例を以て心に之を可なりと云ふものにあらざることを諒せらるべし、
此の文の如くは葛岡氏は合衆国及びカナダの職工等が団結して、日本労働者の排斥運動を為すは確に極端なる利己心の発動と見做したる者なり、然らば則ち他国に於て之と同一なる法制を立つるも極端なる利己心の発動にあらさるか、氏の所謂正理の必要存することありとは如何なる場合を言ふか、余輩実に其の主意を解する能はざるなり、
且つ社会政策論者が法制の当、不当を断するに、常に極端なる利己心と尋常の利己心とを以てせり、尋常の利己心は社会政策論者の当とする所なり、極端なる利己心は社会政策論者の不当とする所なり、然れども如何なる程度以下の利己心は尋常の利己心にして、如何なる程度以上の利己心は極端なる利己心なるやは、社会政策論者の未だ説明せざる所なり、余心は葛岡氏に向ひて其の標準を示さんことを希望せざるを得ず、余輩の意見に於ては利己心に極端も尋常もなきことなり自由競争の下に於て発動する利己心は凡て至当なるものなり唯々法律に因りて低廉なる労働の競争を排斥せんとするが如き利己心に至りては、其婦女小童若しくは外国人たることを論せず、凡て独占の利を占めんとするの意思に出つるものならば、素より不当の慾念なり、然るに社会政策論者の所見にては、却て自由競争の場合に於て極端なる利己心の発動ありて、法律を以て低廉なる労働を排斥し、職工をして独占の利を得せしめたる場合に於て却て尋常の利己心の発動あるが如し、是れ余輩が葛岡氏に於て弁明すべきの義務あること信する所以なり、
葛岡氏は余輩を以て十九世紀以来(以来と云はるゝも、二十世紀は未だ一年余に過ぎず)の経済状態を知らざるものとなし、之を説明して曰く、
 諸種器械の発明応用、運輸交通の進歩、生産機関の拡大は激甚なる自由競争を来し、過大なる資本集中を生じ、資本の勢力は益々其の重きを加へ、資本家は自ら保ち自ら大にするに急にして、他を顧るの暇なく、為に自由競争の弊をして其の度を逸せしめたるに方り、労働者の状態を察すれば甚た寒心すべきものあり、一般産業の変革、富資の増殖は不知不識の間に生活の費用を増加するに反し、労働者の所得は之に伴はず、労働者の地位は更に進歩するの望少く却て退歩するの傾を生じ、労働者は其の地位を保つに苦むのみならず、或は職を求むるの難きの情況を呈したり云々
葛岡氏の論調は全く社会民主党諸氏と同一なり、氏は資本主の富大は労働者をして困難に陥らしめ、資本の増殖、利息の下落は賃銀を減少するものなりと信ずるの人なりと見えたり余輩は葛岡氏は必ず経済書を読みたる人なることを知る、経済書の如何なる部分に利息の低減は賃銀の減少を発することを記するものあるや、又実際に於ては今日ヨウロツパ及びアメリカ等の賃銀は我邦に数倍し、其の職工の生計凡て我が邦より豊かなるを以て、日本の労働者は競ひて合衆国カナダ等に赴かんとするの事実あるにやあらずや、之に依りて之を観ればヨウロツパ及アメリカ等の職工が今尚ほ不平を抱く所以のものは、全く下女の井戸端会議と同にして、凡て満足する能はざるの人情に発するもたることを知るべし、何ぞ之を以て直に資本の増殖利息の低落は却て賃銀を減少し職工をして生計に苦ましむるものなりと速断することを得んや、達観し来れば、今日の職工は旧時の中等社会よりも幸福なることなり、葛岡氏は之に次きて曰く
 此に於て乎、労働者の間には失望怨恨の声起り、資本家は競争の間に其の力を保つに狂奔して之を顧みず、(中略)為に「ストライキ」起り、「ロツク、アウト」起り或は一時に多数工場の業を廃して一国生産の発達を阻碍し、或は一時に千人万人の職工に職を失はしむるの悲憺を現す、而して此機に乗じ、一部の士、教育あり定職なき者過激の言説を流布して、世人の感情を翻弄し、労働者の無知無謀を利して所謂共産党社会党の運動を起し、社会の調和邦国の秩序、為に撹乱せられんとす、是れ欧米各国に於ける十九世紀の経済状態にあらずや、此の如きは果して自由競争の間に資本労働の調和ありと謂ふを得べきか、(中略)余輩は之を以て自由競争の余弊なりと断言するに憚らざりきなり、
余輩は同盟罷工の害を知る、然れども夜業を禁止し労働時間を制限すれば、同盟罷工は止むべきか、工場法を設くれば賃銀は増加すべきか、葛岡氏よ、職工等の理由なき要求に雷同するなかれ、夫れ職工等は無知なるものなり、彼等は思へらく、労働時間にして制限せらるゝときは自己の幸福増進すべしと、経済世界に此の如き理法なきことを解せざるなり、故に此の法律を設くるの国に於ても職工今猶満足せずして、数々同盟罷工を発することは葛岡氏の目撃する所ならずや、愚人の希望は余輩之を咎めずと雖も、社会政策論者の如く多く学識経験あるものにして、此の如き法制の下に能く資本と労働を調和すべしと信ずるは、余輩之を異とせざるを得ず、夫れ資本主と労働者との衝突は共に利息賃銀の自然相場に満足せざるに発するものなり、労働時欄を制限したればとて、却て労働者をして多く賃銀を得せしむる能はざるは容易に解し得べき事柄ならずや、葛岡氏よ、職工の愚論に雷同するなかれ、且夫れ社会党共産党の発するを防がんが為に、此の法案を主張するに至りては殊に理由なきものとす、世間愚論を唱ふるものあらば、之を鎮圧せんが為めに其の愚論に雷同することは至当の方法なるか、是れ五鼎に食はんとして五鼎に煮らるゝに均し策略としても最も下策たることを免るべからざるなり、然るに葛岡氏は曰く、
 「十九世紀経済変遷に際し此の如き悲惨の歴史を演し、社会の不調和を致したるは其の過或は資本家に在るあらん、或は労働者の思慮を欠くに在るあらん、然れとも深く其の因由を尋繹するに於て、経済制度より生ずる余病たるを知るに難からず、要する無制限自由競争の病なり、余輩は之に対して医治を施さんとする者なり」と、
而して其の医治の方法を問へは則ち曰く、労働時間制限と、抑も医師の薬を病に施すや、其の薬の性質の病に適中するものを用ふべし、熱病に対して下熱剤を用ひ、粘液膜病に対して修斂剤を用ふるが如し、労働時間を制限せば、何を以て能く職工と資本主とを調和するの効あるか、葛岡氏必ず言はん職工等之を希望するが故に必ず其の効あらんと、是れ豈に真正なる医師ならんや、真正なる医師は患者が如何に要求したればとて、之に効力なき薬は与へざるべし、葛岡氏たるもの再思して可なり、
葛岡氏は最後に東京市街鉄道公有民有の事に関して弁する所ありき、余輩亦弁なきにあらずと雖も、事支論に渉るを以て今之を論せず、要するに労働時間の制限は同盟罷工を防遏するの効力なきのみならず、日本の製産をして世界と競争する能はさらしめ、且最貧の婦女小童をして餓死に瀕せしむるものなり、然るに社会政策論者並に社会民主党は軽々之を主張するものなり、余輩之に対して論弁を辞せざるものは、其の国家に災せんことを恐るればなり、思ふに葛岡氏の如き自然の調和を信せずして、無効なる薬石を用ひんとするものなり余輩豈に弁せずして罷むことを得んや、

〔2008年1月6日掲載〕


『東京経済雑誌』第1114号(明治35年1月25日)





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