社会政策学会 談話室




田中洋子

イエメン社会に見る男女の二重世界

イエメン,エンカルタ地球儀により作成

  アラビア半島の紅海に面したアフリカ対岸、サウジアラビアの南にあるイエメン共和国は、イスラームの伝統を色濃く残した国である。1994年まで内戦が戦われ、結局部族伝統を引いた勢力が社会主義勢力を制圧することによって現在の国が形成されてきた歴史の中、アラブ諸国の中でも「開発」が遅れ、GNPは今もなお低位水準にとどまっている。イエメンは、近代化路線をとった反動からイスラーム原理主義が登場してきた多くの国とは異なり、イスラームの伝統をいわば即自的状態のまま残している数少ない社会であると言ってもいいかもしれない。
  このことは、イエメン社会における男性世界と女性世界の対照性を、他のアラブ諸国よりも一段と際立たせている。一カ月余りの間、イエメン各地に滞在した観察にもとづいて、イスラーム社会における伝統的な男女の二重世界のあり方について少し述べてみたい。


完璧に分かれた男女の世界

  首都サナアの小さな空港では、まず、同じアラブでもエジプトやヨルダンでは決して見ることのできない光景に出会うことになる。出迎え等で空港のホールにいる人々の99パーセント以上は男性である。そして自動小銃を持った緑の軍服の軍人以外の男性の8割くらいは、腰にベルトを巻いてジャンビアと呼ばれる刀(三日月刀)を胸から腹にかけて差している。イエメン女性
・・・ではなく、旅行中の筆者この国には「排刀令」はない。空港ホールに唯一いた子供連れの女性は、頭の先から足の先まで、全身を黒い布でおおっている。長袖で長い丈の黒の服を着て、頭にヘジャーブと呼ばれる黒のショールをかぶり、更に目の所を約1センチほど残して顔全体をおおうのである。これで黒の手袋をすると、外から見た時、彼女はほとんど黒の物体にしか見えない。男性だけの世界の中にいても、彼女は特に注目を引くこともなく、そこに居ることができるのである。
  空港での光景は決して例外的なものではない。というよりも、外国との接触があり、一般的に「近代化」が最も進んでいるはずの空港でさえこうであるから、市内や地方については言わずもがなである。サナアの街においても、街を歩いている人、集まって話をしたり、買物をしたりしている人は、やはりほとんど男性から構成されている。通りの一角の辺りで仕事の話・交渉の機会が来るのを待っている、眼に見える「労働市場」における、モップや工具をかついだ数十人もの人々の群れはもちろん、朝から座りこんで家の外でゲームに興じて人々も、国際援助物資としてまわってきた世界各国の上着や軍服を屋台で売りさばいている人、買っている人も、羊の肉を買いに行列を作っているのも、およそ見渡す限り街は老若の男性ばかりである。 イエメンの首都サナアの市場、男ばかり
  最も正統派の男性の格好は、長袖で長い丈の白い服の上に、金糸でふちどりされたベルトに、革に金属細工のついた古い立派な刀を差し、その上に上着を着る。頭には赤または黒の模様のはいった布を巻き付ける。ただしエジプトやヨルダン、サウジ・アラビアのようにイカールと呼ばれる黒い巻き紐で押さえることはせず、巻き付けた布を左右にはさみこむやり方を取る。これはオリンピックでのイエメン代表選手の入場の正装でもある。実際には多くの人々は、普通の長袖シャツを来て、腰から下にはインドやインドネシアなどと同じロンギー、ここではフータンと呼ばれる腰布を巻いている人が多い。頭もいつも布を巻いているわけではなく、三角の布をショールのように肩に掛け、日除けや汗拭きに使いながら、その時々で巻いたり巻かなかったりする。

  サナアをはじめ高原地方の街では、比較的涼しいのでこの上に背広などの上着を着ており、7 〜8割くらいの人が三日月刀を差している。しかし、紅海沿岸やアラビア海沿岸のホデイダやアデンなどの街では、気温が40度前後でかつ蒸し暑いため、上着はもちろん着ないし、刀を差す人も比較的少なくなっている。これには南イエメンの旧社会主義圏で帯刀が禁止されていたことも影響していると見られる。
イエメンの女性   街でたまに出会う女性の状況はどうだろうか。女性の場合、同性同士数人で連れそっていることが多い。やはり目の所1センチ以外はすべて全身を黒でおおっているか、あるいは目の上からも更に黒い布をたらし、外側からは完全に黒いものにしか見えない「完全武装」している人がほとんどである。しかし、やってみて初めてわかるが、目の上を黒い布でおおっても、昼間は外が明るいので中から十分外を見ることができる。また、強い日差しや砂ぼこりをよける意味でも、非常に合理的な役割を果たしていることがわかる。ただし、ホデイダなど、40度前後の気温に紅海からの湿った空気がプラスされた場所では、全身黒い服を着て歩いていると、非常にエネルギー消耗度が高くなるという欠点がある。何人もこういう女性が集まっている所では、誰が誰なのか、背の高さや体格、かばん(これもたいてい黒)の種類で見てもすぐ見分けをつけることは難しい。
  主流である黒の服装の中で多少異なっているのは、アフリカ系とベドウィン系の女性の場合である。アフリカ系の女性の場合、同じ服装であっても、色が黒ではなく、黄色やピンク、緑などカラフルな色の服やショールを身につけていたり、また顔を隠していない女性も数多く見られる。ショールが黒でなく、顔を見せている点では、ヨルダンやエジプト、マレーシアやインドネシアなど多くのムスリム諸国と共通しているが、イエメンにおいてはとても「大胆」で特殊な姿に映る。紅海沿いの街ではアフリカ系の女性の数が比較的多く、顔を出している女性も目立つ。しかし「海の近くの街は開放的」とか「旧社会主義圏だった南イエメンは近代的」と言われているほどにはその差は大きくはなく、やはり基本は、目しか出していない完全黒装束であった。ベドウィン系の女性の場合には、顔は隠しているものの、赤の地に黒と白のまざった大きな円が染められた布を顔の下に使い、赤に細かい模様の入った大きな布をショールと服に使っている。地方の部族ごとには、顔は黒で覆いながらも、ショールは黄色やピンク色などを使う場合もある。

  子供の場合はどうだろうか。街の裏通りで見かけるのは、遊びふざける男の子たちの姿である。小学校から中学校くらいにかけての子供たちがよく仲間同士で遊んでいるが、同じような女の子たちの姿を見ることはできない。女の子を見かける場合は、だいたい8、9才、小学校の低学年以下の小さい子だけである。地方の村に行くと、この位の年までは、男女いっしょに走り回ったり、石を投げ合ったり、取っ組みあったりして遊んでいる姿を見ることができる。その頃の年までの女の子は、概してとても派手な格好をしている。土埃で汚れてはいるものの、レースやフリルのたくさん付いた白やピンクや黄色のワンピースが定番であり、日本では何かの発表会の衣装のようなものである。
  小学校の真ん中くらいになると、女の子はまずショールを頭に巻きはじめる。はじめは「私も大人よ」と背伸びしておしゃれをしている様子である。しかし、高学年くらいになると最早家の中に引き込んで外には出てこなくなる。そして外出する時は、年齢もわからない黒い姿になるのである。村の中を移動する時や山や畑に仕事に行く時など、ちょっと家の外に出る場合でさえも、外出用の完璧な黒い格好になる。家の周りで遊んでいる子供を食事に呼ぶ時にも、不用意に家の中の姿のまま外に呼びに行くことはせず、家の扉の所に立ってものを叩いて合図の音を出すのである。

  しかし、小さな女の子の派手な恰好からもうかがわれるように、女性は家の中では、黒のロングドレスから解放され、様々な色の服や装身具を家族や女友達と共に楽しむ。サナア市内の店を見ても、店の入口近くで黒のドレスを売る店でも、中に入るとピンクや黄色、緑、赤などの極彩色に、たくさんのレースや金糸・ラメを使ったドレスや布、また下着を売っており、これらを男性が買って家に持って帰って奥さんに着せるのである。また、金・銀・貴金属のブレスレットやネックレス、イヤリングなどの装身具の店も多く、これらの店には時々連れ立った女性の姿を見かけることができる。女性の服装の自由度にはもちろん国別に大きな差があり、家の内外で短いスカートも可能なエジプトやトルコのような国も、家の中だけショールをぬぎ、短い丈の派手なワンピースを着る人もいるヨルダンのような国もあり、イエメンは中でも特に堅い方で、家の中でも長袖の丈の長い服を着て、ショールはずっと付けたままの場合が多い。
  家の内部もその原則は同様で、部屋は男女別に別れている。ベドウィンの大家族の伝統的なテントでも、一つのテントが幕で男の部屋と女の部屋に分けられ、いつもは男女別にくつろぎ、客も男女別の部屋でもてなしを受ける。男の客は決して女の部屋に入れない。 男子・独身男性は男の部屋で休み、女の部屋が夫婦の寝室となる(Cole,110 ・114;片倉1979、69・72)。イエメンの場合そこまで極端ではないが、絶壁の上にある小さな村ハジャラでの石づくりの伝統的家屋の例を取ると、5 畳くらいで先祖代々伝わってきた古くて立派なジャンビアが三本、壁に掛けられているのが男の部屋で、男性家族の写真や学校の卒業証書などが飾られている。もう一つのもっと大きな部屋は女の部屋で、色鮮やかな絨毯がひかれ、コの字型にマットレスが並べられており、家族団欒の居間としてもくつろげるようになっている。壁にも風景画をあしらった大きな絨毯が掛けられ、ほかにも奥さんの手縫いの刺繍や飾り、金属の食器・コーヒーポットや水差し・香炉などが置かれている。



 市場と切り離された女性の世界

  このようにイエメンでは、かなり徹底した形で男女の棲み分けが形成されており、完璧なまでに男女の世界が分離された姿を見ることができる。それはつまり、女の世界が男による「市場」の世界には接しない「家」の世界をつくっていることを意味している。
  服装に関しては、特に同じアラブでもエジプトやヨルダンではここまで徹底した形を見ることはできないし、シリアでも、ムジャヒディンの反乱がアサド大統領によって鎮圧されたハマのような、イスラーム原理主義の強い街でのみ全身黒装束の女性が見られるにすぎない。この意味でイエメンはイスラーム原理主義を方向性として改めて強くかかげる必要もないほどに、イスラームの伝統が生きている社会だと言うことができよう。
  ただし、一言だけ付け加えておくべきなのは、こうした伝統を西欧的価値観から一元的に、直ちに女性の抑圧・隷属であると判断することに性急になってはいけないということだろう。アラブの女性の世界ののびやかさを女性として経験してきた片倉もと子(『イスラームの日常世界』1991年『アラビア・ノート』1979年 ) は、アラブの女性には「男と女の隔離ゆえに、ことさら、のびのびと自由を謳歌しているところがみえる。不特定多数の男たちの目を意識して、とりつくろうところがない。現代資本主義社会では、ともすれば、女性が男性の眼を意識して、いつのまにか商品化、あるいは付属品化する傾向があるのと対照的である」、「女たちはベールをかぶることにより、『見られる女』から『見る女』に変身する。これにより容姿だけで判断されることをきっぱり拒否して、中味で勝負しましょうということになる」とし、伝統をむしろ積極的に評価する視角をうちだしている。現在は、ミニ・スカートまで行った「近代化」への反動から、わざわざ若い女性が逆にヘジャーブへ戻ろうとする伝統回帰の動きがあるエジプトやトルコ、フランス国内の学校でのヘジャーブ禁止に反発する女子学生、その一方でアフガニスタンのタリバーン勢力によるヘジャーブ政策の徹底への反発やイランのハタミ政権樹立へ向かう選挙活動中におけるヘジャーブ不要論への女性からの高い期待など、ムスリム内でも評価が様々な形に多様化しつつ、また変化しつつあるのが現状であろう。

  服装だけでなく、家を中心とした世界の分かれ方もきわめてはっきりしていた。つまり家の外は、仕事や買物、カートの社交や取引交渉を含めて、すべて「男たちの世界」であり、そこでは女性は男性の目を引くことのない「黒い物体」として例外的に姿を表すにすぎない。女性は「家の中」の世界の住人である。家事と育児、家周辺での農業やヤギ・羊追い、布づくりや縫い物などのちょっとした家内工業がその内容である。アラブ人の住宅について「労働、戦争、商売といった荒々しい公的世界に対して家はゆったりとしたアンチテーゼとなる女性の領域でる。――女性を意味する『ハリム』は、『ハレム』すなわち神聖なという語と関係を持ち、家族が暮らす場所を表している」(Donald Powell Cole,Nomads of the Nomads,1975)と言われるように、こうした女性を「市場」領域から「家」領域として切離すことは、アラブの社会経済の一つの大きな特徴であると言っていいだろう。
  このことに対しても、女性が公の場に出て買物をする自由が阻まれ、男性によって自立性が阻害されていると評価できる一方、逆にそれを女性の力の強さ、逆転した力関係の象徴だとする見方も同時に存在する。「これを買ってきて」と夫になんでも頼め、男はこの課題を果たさなければならないという力関係は、たとえば湾岸戦争の時にサウジアラビアの空軍パイロットが、「主夫」として家族の食料などを買いに行くために4 、5 日に一回くらいの割合で基地から自宅に戻って買物をしたために戦力が低下したという話や、イランにおいて「町の八百屋にも、肉屋にも、バッガーリー( =スーパーマーケット)にも、大きなビニール袋を下げたお父さんたちの姿が必ずある。・・昨今のテヘランでは家庭内の女権の強さの現れとも見える」(鳥居高編『発展途上国の市場とくらし』1997年)という話としても捉えられている。いずれにしてもアラブにおけるこうした男女世界の二重性の存在そのものは、かなり一般化できると考えられるだろう。




〔2004年5月10日掲載〕



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