田中洋子
アイルランド・パブの経済原理
(1) 一杯ごとに退出自由な市場
アイルランドと言えば、まずはパブ、と言ってもいいだろう。それもイギリスとはちがって、おいしいギネスを飲ませ、ライブ演奏のついたミュージック・パブである。
観光用の絵はがきでも、色とりどりに立ち並んだパブの店構えや、町の有名なパブの店内の様子、ギネス・ビールの宣伝を題材にしたものの多さには驚かされる。パブはアイルランド中で一番かっこいい、自慢できるおしゃれな場所のようである。
1999年夏、このアイルランドに典型的な居酒屋であるパブ(タヴァン)を各地で毎晩まわっていて気がついたことがある。それは、アイルランドの社会経済システムの特徴が、パブと人々との関係や人々の飲み方の原理に表れているのではないかということだ。
パブではどこでも、一杯ごとにお金を支払う。自分でカウンターに行って注文し、自分の酒ができるのを待ち、支払いをその場ですませる。また店の隅には椅子も置かれてるが、基本的にはカウンターと背の高いテーブルがあるだけで立ち飲みである。立って飲んでいて精算も済んでいるので、おかわりに行くかわりに、一杯だけ飲んですぐ出ていく、気軽な人も少なくない。 常に出入りがあり、人が次々と入れ代わっていくのである。
同じパブ形式をとるイギリスを除いた他のヨーロッパでは、こういう形式はあまり一般的ではない。日本でも、一回腰を下すと長くいることが多いだろうし、ちょっとだけいてすぐ出ていくのは不作法な感じで、何しにきたんだという目でみられたりする。また、長くいればいるほど、いつも来れば来るほど、常連として大きな顔ができたりもする。
こうした差異は、労働市場原理の違いを思い起こさせるものがある。労働移動の流動性を前提とし、短期の移動を繰り返すことで市場を調整しようとする市場指向モデルと、短期移動を前提とはせず、むしろ長期の定着を見込んだ上で組織的な調整をはかろうとする組織指向モデルである。ここから考えると、パブの場合には明らかに短期的な移動を市場の調整――この場合、多くの人々がパブでの時間を楽しく過ごすこと――のために利用しようとする方向が感じられる。そこではいつでも退出と移動が自由であり、とりあえず一杯飲んで雰囲気を見て、気に食わなかったらすぐに出ていって他の気に入りそうな店を渡り歩くことができる。またそこでは、たった一杯飲む間だけでもその場の雰囲気に溶け込むことができ、それですぐに出ていったからといって人々の非難の視線を浴びることはない。せいぜい、「おい、また後で戻ってこいよ」と言われる程度である。つまり、市場はオープンで出入りは自由、選択は完全に個人の決定にまかされているのであり、「そこに長く属していること」による価値は大して認められていないのである。
そして実際、その移動は役立っているように見える。小さな地方の町にも、中心には必ず何軒かパブが軒を連ねている。少し歩けば、ガンガン大音量のロック中心のところがある一方、1950年代のジャズのライブをしぶくやっている場所もあれば、アイルランドの民族音楽をギターと太鼓だけでこじんまりと演奏している店や、同じ伝統音楽でも、愉快なフィドルの軽快なリズムを中心にみんなで輪になって大騒ぎしながら踊るのがメインのところなどもあり、その雰囲気はずいぶんとちがっている。バンドやその演目は、たいてい店の入口に目立つように貼ってあり、人々はそれを参考にしながら店を渡り歩くことができるのである。
(2) 市場を支える地域共同体
アイルランドのパブは一見したところ、短期移動を前提とした労働市場のように、一杯ごとに退出動自由な、その場その場で市場に対応する可変的な調整力を持っているようにも見える。しかしだからといって、そこにスポット的市場以外の論理が存在していないとわけではないこともまた、アイルライドの大きな特徴をなしている。つまり、逆説的ではあるが、パブはアイルランド社会にとって市場原理とは反対の、地域共同体の中心としての非常に強い求心力を保持しているという点である。
大都市である首都ダブリンの中心街を一歩出ると、アイルランドのどこへ行っても、見渡す限りのなだらかな畑の稜線がつづき、羊や牛の放牧などののんびりとした農村風景が同じように見られる。時折遠浅の海岸線を馬で行く様子や、点在する古城や遺跡が目にはいってくる。そんなどこの街に滞在してもすぐわかることは、他のどの国よりもきわだって、アイルランドのパブが町のセンターになっているということだ。それは単に、町や村の中心部に建ち並ぶ、最も目を引く色あざやかでおしゃれな建物がまず間違いなくパブである、というだけのことではない。小さな町ではとりわけだが、パブは居酒屋であり、ライブ・ハウスであり、ダンス場であると同時に、ダーツをはじめとするゲーム・センターであり、釣り道具屋であり、八百屋・ドラッグストア・日用品・冷凍食品コーナーを備えたミニ・スーパーマーケットであり、昼はパブ・ランチを出すレストランであり、そして旅の宿(INN)でもある。つまり、パブは地域の人々が顔を合わせてワイワイ楽しむ町の社交場とよろず屋ないしコンビニの機能をすべて持ち合わせた地域共同体の中心的役割を担っているのである。
パブには若い女性たちはもちろん(概して田舎にいくほど男女別に行動することが多い)、家族・親子連れ、年配の老人たち、車椅子や松葉杖の人、言葉の不自由な人などいろいろな人が来ているのが普通で、全く違和感なく皆それぞれギネスを手に煙草をくゆらせたり、話をはずませたり、踊ったりして楽しんでいる。たいていの店では子供でも9時まではOKのため、6時から8時までの最初のライブの間は、演奏している前を小さな子供たちがちょろちょろ走り回ったり、準備や曲の合間に楽器やマイクをいじったりしている。店やバンドの方も心得たもので、客の子供がその日に7歳の誕生日を迎えると聞くや、誕生日の曲を演奏し、即興でその子供のために歌詞をつけ、その場にいるみんなでお祝いをしてあげたりする。親に高く抱き上げられた子供のまわりを、パブにいる人たちみんなが輪になって踊りながらお祝いする光景は、きっとその子供の心の中に長く焼き付けられることだろう。結婚式の二次会も当然のようにパブで行われ、10時から次のライブがはじまる頃にはもうすっかり飲みすぎて羽目のはずれた若い新郎新婦とその仲間たちの大騒ぎが、夜更けまで延々とつづけられるのである。
アイルランドでは、イギリスのようにパブがミドルクラス用と下層階級用に分かれたり、パブ内で仕切られたりしている所は見かけなかった。アイルランドでのパブ中心の地域生活の中には、これまで歴史的に農民として暮らしてきた人々の生活のしかた、地域の共同体のつくり方が凝縮されているように見える。パブで酒をおごりあう時、一人が仲間全員におごり、おごられた全員が他の全員におごり返すまで飲みつづけるという原理(人数が多い時はたいへんである)のように、ここには市場原理ではない、平等性の上にたった互酬関係という地域社会の特性――日本では変質しつつあるような――がなお生きつづけ、それがアイルランド社会を下支えしているように感じられる。
(3) ケルト・コミュニズムとイギリス市場主義の相剋
アイルランドのパブを中心とした地域生活から感じられる共同体的性格は、経験的観察からだけにとどまらず、アイルランドの歴史的な背景からも読み解くことができる。
つまり、アイルランド人の祖先であるケルト人が、伝統的に維持してきた社会経済システムとしての「ケルト共同体主義」ないし「ケルト・コミュニズムCeltic Communism」の存在が持った影響力からである。
P・ベレスフォード・エリスは『アイルランド労働者階級史』の中で、アイルランドの歴史を、先住ケルト人の「ケルト・コミュニズム」と外からの「アングロ(イギリス)支配」との衝突の過程として捉えている。ケルト社会では歴史的に土地を共同体ないし一族全体に属すものと考え、共同体成員全員に土地を分配するだけでなく、メンバー全員が自由に使うことのできる良質で広大な共有地を持っていた。さらに老人や貧しい者、孤児や障害者のメンバーのための土地が別にあり、全メンバーによって支えられていた。土地は共同で耕され、収穫され、その人の共同体への貢献と能力――ただし軍事的貢献は対象外とされた――を評価する伝統的方法で分配された。分配には常に格差がついたが、それは固定的身分階層とはされず、流動的に変化するものだったという。有名な「蜂法」の慣習――蜂を飼っている者は三年ごとに近所の人々に蜂蜜を分けることになっていた。なぜなら蜂は、近隣の花花から蜜を集めてくるから――も、ケルト・コミュニズムを象徴する話である。
こうしたケルトの部族社会は、16世紀以来数百年にわたるイギリスのたび重なる侵入とケルトへの軍事的制圧・植民都市の建設によって徐々に崩され、かわりにイギリスから新しい社会経済の編成原理としての市場メカニズムが持ち込まれていった。しかしその一方で、農村における共有制原則は、19世紀後半になってもなおそのまま機能していたことが指摘されている。例えば、フリードリヒ・エンゲルスも当時、「政治経済学や法学の大学教授は、アイルランド人農民に近代的な私的所有の概念を移植することの不可能性に手をやいている」と述べていた。つまりイギリスでは当然の前提であった私有化や市場中心の考え方は、アイルランド社会にとっては自らの伝統とどうしても相いれないものだったのである。彼らが社会主義運動に関わったのも、「ただ昔の祖父たちの一族の生活の中で行われてきた共産主義的な慣習と実践の相続に愛着をもって離れがたかったから」であったと言われる。
映画「マイケル・コリンズ」にも描かれていたように、アイルランド独立の闘士は、イギリスによる苛酷な弾圧・処刑を受けて、過激な手段を取っていったことが知られている。松明・爆弾による放火、劇薬撒き、一人一殺的テロなどである。彼らはどうしてこういう方向に走ったのか。エリスは、「イギリスやアメリカの大都市のように、完全に異なったモラルと法的基準を持つ社会に突然投げ込まれたアイルランドの人々」が、自分達の基盤であった「ケルト・コミュニズムにおけるすべてのモラルと正義を絶望的にあきらめざるをえなくなった」と述べ、彼らが「生きる手がかりを失う中で混乱していったことには、なんの不思議もない」と言っている。彼らの行動はまさにこのこととよく符号すると言えるのではないだろうか。
現在のアイルランドは、パブに象徴されるようにイギリス的市場主義とケルト的共同体主義を同居させた独自の形を発展させつつあるように見える。しかし、同じアイルランド島内でもイギリス領北アイルランドにおいては、この矛盾は今もなお先鋭である。ベルファストでは商店街の入口にテロ警戒のために銃を持った警官が何人も配置され、商品の多くが床に落とされたまま放置されているという、殺伐とした雰囲気の店も多く見かけた。 夕方早々にほとんどの店はシャッターを下ろし、その後には人影のまばらになった大通りにゴミが舞い、遠くから人の怒号が聞こえてくる。一日も早い北アイルランド問題の解決を望まずにはいられない。
〔2002年10月30日掲載〕