高橋 伸一
サイゴン滞在記
勉強の必要性を痛感し、会社員を辞めて大學に入ったとき、私は22才になっていた。そして、国際化・アジアの時代を考えて、ベトナムでの研究生活を開始したときには47才である。どちらも乗り遅れ人生ではあるが、昭和22(1947)年の生まれだから、22才で大學、47才で海外。これも私の宿命の中に規定されて在ったのかと、自分史の数字符合に独り勢いを得て、ベトナム生活を意図した。
さて、年度末の超多忙の日々をすごし、関係諸氏には多大なる残務を押しつけての出国であった。ベトナムには無事に着いたものの、それまでのビザの問題から入国の顛末など、実にスリルに満ちた展開であった。しかし、それに触れると法に触れることもあるので、研修中の身としてはおとなしく日々の生活の一端なり紹介し、海外研修の中間報告としたい。
まず、今住んでいるところは空港から車で10分ほどのところである。家から街の中心までは20分。要するにこのホーチミン市は、人口700万人(政府の発表は1994年で、475万)とベトナム最大の都市であるが、意外に市域は狭く、人口の超過密都市なのである。碧空に飛び立つ機影を家の屋上から眺望することができるが、その爆音は意外と届かない。街の活気というか、人々の「生活の音」が荒ましいからである。ホーチミン名物ホンダの疾走する爆音で、早朝の静寂が破られ、日中は絶え間なく行き交う行商のおにいさん、おばさんの売り声が響き、夕方からは子どもたちの歓声と隣家からのカラオケがボリューム一杯に流される。最近は、拡声器をセットしての行商や物乞いの出現で「活気」はさらにエスカレートしつつある。
さて、7時に起きてメイド(お手伝い)さんの用意する朝食をとる。フランスパンとオレンジュースにオムレツが定番である。味付けは実にうまい、私の家のメイドさんは、料理の腕は確かなものを持っていると吹聴したいほどである。これは前に住んでいた下宿では、食事で苦い体験があったからである。
今思い出しても背筋が寒くなるほどだ。元来、私は食べることには興味を示さない人間だと信じていたが、どう説明しても卵焼きが普通に作れないメイドさんには文字どおり閉口した。もちろん自分で料理すれば済む話しではないか、と言われればそれまでだが、ここはベトナムである。冷蔵庫はあってもコンセントが抜いてあり、プロパンガスはあっても木炭を主に使っている「家風」であれば、そうノコノコと台所で勝手を決め込む勇気までは持ち合わせない。
それに、メイドさんの職場を侵害するのも心が退ける。炊事・洗濯・掃除と家事一切はメイドさんがしてしまうので、下宿人としてはメイドさんとの親和関係を欠かせない。
今のベトナム社会を3つのキーワードで現せと言われれば、一番に上げたくなるのがこのメイド文化である。特に裕福ではなくても、下宿人をおくような家にはメイドさんが一人や二人はいる。ちなみに、彼女らの月給は3千円前後、休みなし、24時間体制だからすごい。こんな労働者にむかってもっとましな卵焼きを要求したり、毎日同じメニューは困るとか、アイロンは丁寧になどと不満を抱く方が悪いに決まっている。
キーワードの二番目は鍵社会である。家を出るにはメイドさんにたのんで玄関の扉を開けてもらう。出たら大きな中国製の錠前が掛けられるので、タバコを忘れた、帽子を忘れたなどと気が付いても、呼び鈴を鳴らしメイドさんがゆったりと出てくる姿を想像すると、面倒くささが先に来てそのまま出かけることになってしまう。ふらりと散歩に出る、タバコを買いにちょっとそこまで、そんな気楽な生活がしてみたいなどと、何度も鍵社会の論理を考えた所以である。
だいたい、ドアに鍵が3個、塀は鉄条網、窓に鉄格子では女工哀史の「篭の鳥」ではないか、と笑いたくなるほど用心深い。それほどの資産家なのか、盗まれるものがあるのかと思うが、どの家も戸締まりはことのほか厳重であるから、これは鍵社会としかいいようがない。原因は、泥棒が多い。テレビ・バイクなど耐久消費財は資産・財産である。タンス貯金・タンス〈金〉の普遍性にあるようだ。
泥棒の方は、よく解らないが泥棒市場の「商品」は多種多様、大盛況である。私の体験では、昼間でも家の中のバイクが盗まれた。盗まれたのは大家さんのバイク、横の私のバイクは無事だった。これは、鍵をかけ忘れた数分のできごと、プロの手口は鮮やかである。また、お寺に住んで居たとき、1ドルで買ったサンダルが盗まれそうになった。境内に住む青年が「泥棒」を発見して大騒ぎになり、被害者?の私が不注意を叱られた。かくしてホーチミンの街は鍵社会となっているわけだが、鍵のいらなかった時代を早く取り戻してほしいと願うばかりである。
キーワードの三番目は、路地生活であろう。大通りから脇に入ると少し通りは狭くなり、その次からは路地になる。路地は右、左と曲がりながら突然、表通りでることもあるが、ほとんどは行き止まりの袋小路になっている。迷路とはこの街の路地にふさわしい形容である。
町の住居表示を見ると、路地がきちんとわかる仕組みになっているから「便利」がよい。まず通りの名前があって右の家が偶数、左が奇数で順番に並ぶ。脇道は斜線で表示する。そこからさらに脇道にはいるともう一度斜線を引けばいいのである。
例えば、ドンコイ通り 30 / 20 / 10 の家は、ドンコイ通りに沿って30番目の家を曲がって、20番目をもう一度曲がる、路地にはいって10軒目である。最後の10が100だったりすると、これは深い路地の奥、無事にたどり着いてもうまく帰れない心配がある。今のは地上というか、横の話しであるが、もう少しややこしいのが垂直路地・ビルの場合である。花見小路界隈の雑居ビルは妖しげなネオンの向こうを探す趣もあるが、こちらは一歩踏み込めば生活の場。通りに面した1階はみやげ物店だったり、メガネ屋だったり様々だが、その小さなメガネ屋のガラスケースの前を通りぬけると階段があって、七輪や食器が無造作に置かれ生活の一端が伝わってくる。暑いので少しでも風が通るように家々の扉は少しあいていて、独特の臭いがゆったりと階段を漂っている。同行したベトナム人が、ここは貧しいですね、などと私にささやくがそんな生やさしい表現で納まるとは思えない。
こうした、メイド文化、鍵社会、路地生活も「住めば都」である。道路の横断に手をあげて進退窮まった「田舎者」の私も、自転車からバイクに乗り替えるころには、ルール無き交通ルールを肌で感じ、信号無き交差点でのニアミスに心を揺らすこともなくなったのである。しかし、ワープロを頼りにする日本人としては、週に一、二度の停電には抗す術もなく、ローソクの仄かな明かりに溜息を吹きかけるのみである。
さて、こちらの大學事情も触れておきたい。
ベトナムの大學も近年サバイバルをかけて変貌している。大學は総合大学が6校、単科大学が125校あるが、昨年から100ドルほどの授業料を徴収するようになり、学生の負担増が懸念される。私がお世話になっているホーチミン市総合大學も、海外との研究交流の促進、コンピュータ教育の本格導入、新学部の増設と対応に追われている。
学生数は4千人、教員は500人ほどである。キャンパスは自然科学系は第一キャンパス、人文科学系は第二キャンパスと分かれてているが、教室不足は深刻であり、専門学校の教室を借りての授業も多い。大學進学率は3〜4%程度であるが、日曜と夜間を利用したオープン講座に通う社会人学生はフルタイマーの2倍ほどいる。私はその両方のクラスで講義をしているが、社会人の方が特に熱心という印象はない。学生は素朴そのもので、エリート意識も、立身出世主義も感じない。むしろのんびりと学生生活を楽しんでいるようにさえ見受けられる。私の家に遊びに来てくれるが、ベトナム名物春巻きをごちそうしてくれたりする。私がビールでも買ってこようとすると、「学生ですから」と固辞する。屋上で車座になりコーラで乾杯である。ベトナムならではであろう。
11月20日は毎年「先生の日」であるが、小学生から大人までこの日を楽しんでいる。それぞれがプレゼントを学校に持参する。この日は先生のバレンタインみたいなものらしい。大學の講師控室に「在家中孝父母、入学校敬先生」という木彫りのタブレットがあった。学生たちの手作りらしいが、これにはさすがに面食らった。教師聖職論はとうの昔になった日本との断絶を痛感したからである。
この「先生の日」、10年ほど前に政府が設けたものらしいが、誰に聞いてもいつ決まったのか知らない。成立の経過よりも、「今の自分が在るのは先生のおかげですから」という感謝のことばだけが返ってきた。私は、先生の労働条件を改善せずして一年の一日だけ先生を持ち上げるのはどんなものか、などと「日本人」をしていたが、そんな考えは野暮と悟り、ベトナムでの〈先生〉の日々を楽しませてもらっているしだいである。
〔2002年5月5日掲載〕