高田 一夫
イリノイ便り
アメリカは、イリノイ州の大学町に滞在しています。イリノイ州は、中西部の真ん中あたりにある州です。首都はスプリングフィールドという小さな市ですが、州の最大の都市は、シカゴです。中西部というところは、比較的地味なところです。ビジネスマン以外は、あまり観光客も来ません。しかし、中西部はアメリカの心臓部です。鉄鋼、自動車、電機といった古くからの工業地帯であり(ミシガン州や、オハイオ州)、大豆、トウモロコシ、小麦の大産地(イリノイ州)でもあります。アメリカ経済の屋台骨を支えている地域だと言えます。また、シカゴの商品市場は世界有数です。アメリカの物流の結節点が、シカゴなのです。多くの商品がシカゴを経由して、東、西、南へと流れていきます。そして、ここは古き良きアメリカがまだ、残っている地域とも言えます。明るくて、楽天的で、開放的、「気は優しくて力持ち」のアメリカです。
偶然知合いになった照明器具店の女性社長は、この市の経済界がじつに開放的で、よそ者を寛大に受入れてくれる、と話してくれました。ニューヨークやロサンゼルスと比べると、ギスギスしたところがあまりないのです。大きな田舎町といった感じさえします。それはひとつには、やたらと広いからではないでしょうか。ヨーロッパにも、ポーランドからドイツ東部にかけての大平原とか、イタリアのロンバルディア平原とか、大きな平野があります。しかし、中西部の広さは群を抜いています。わが町からシカゴまで、200キロをドライブしても、ほとんど坂ららしい坂はありません。どこまでも畑が続くのです。ロシアの大平原はこれに匹敵するでしょうが、アメリカのように開発されていないでしょう。
物価も非常に安い。地価が安いのは当然ですが、衣類も雑貨も安い。衣料品はゴツイですが、丈夫です。鍋や釜の類もしっかりしています。食材はとくに安く、しかも品質もよいのです。日本の野菜や果物より、ずっと日持ちするように感じます。これに対して、日本の商品は、やたらと凝っていて、値段も高い。果物も、甘くなるまで、店頭に出さないのではないでしょうか。もちろん、凝った結果、違いが出るものもあります。たとえば、炊飯器。私は15ドルの小型炊飯器を買いました。日本の米をふっくら炊こうとしても、ダメでした。タイ米なら、大丈夫です。私はタイ米が好きなので問題ありませんが、日本のあの、ふっくらしたご飯を食べようとしたら、日本製の炊飯器でないとダメでしょう。また、3ドルの小型ナイフも、何と、柄の中で折れてしまいました。
しかし、問題が出ることを承知して使えば、それはひとつの選択というべきでしょう。私も、そう考えて、安物を積極的に買っています。ここの人達は、田舎だからもあるでしょうが、けっこう慎ましく暮しています。車もぼろぼろになるまで乗っています。ガレージ・セールスはここでもたいへん盛んで、個人が不要品を並べて売ります。オーストラリアから移ってきた私の英語の先生が、半ばあきれ顔で、「ここの人達は、安いものを手に入れるのに、情熱を感じている」と言っていました。
ところが、こうした嗜好の違い、価値観の差を別にすると、日米の違いはあまりない、と言ってよいでしょう。人情というのは、そんなに違わないものです。アメリカ人ははっきりものを言うといっても、ヤバイ所では言わないものです。報告がつまらないからといって、助教授が教授を普通は攻撃しません。昇進は大事です。助教授は、アメリカでは不安定な地位だからです。大学内の予算ぶんどり競争も同じようです。個人主義といっても、いっしょに昼食に行けば、払いを一律に頭割りにすることはよくあります。人と違ったことをすることは、アメリカ人でも恥ずかしいことです。家族関係も大きな違いとはいえないと思いました。大学に入れば子供は家を出ますが、親がお金を出すのが普通です。同じ街にいても別居するところだけが違います。ただ、家族の変化はアメリカの方が激しいでしょう。家庭崩壊も、離婚も、ずっと多く見られます。しかし、これも日本が後を追っかけています。
つまり、日米の違いはかなり微妙です。私がはっきりと違いに気付かされたのは、ごく希です。例をあげると、英語の授業で、さまざまな形容詞を、よい意味か、悪い意味か言えという問題がありました。出身国で、反応が違ったのです。 たとえば、私の場合は、easygoingというのは悪い意味で、modestはいい意味だと答えたら、先生が逆だというのです。前者は、日本の辞書では暢気、気楽といった訳語が当ててあって、否定的な意味なのです。しかし、アメリカの辞書では、むしろ、おおらかな、という意味のようです。また、modestは、日米とも辞書では、控えめという意味になります。しかし、これには中国人も賛成したのですが、我々は中庸は徳の至れる、とmodestを受取るのに、アメリカ人は中途半端、煮え切らない、とmodestを取るのです。
こうした控えめ主義も、日本の狭さと関係づけると、わかりやすい。狭さは空間だけでなく、人間関係にもおよびます。日本の社会は、人間関係が濃密です。いろいろ気を遣わなければいけない。控えめにせざるを得ない。
これに対して、アメリカ中西部は、人間関係が希薄です。シカゴ学派のフリードマンは、政府の規制に反対するので有名な経済学者ですが、ここに暮していると、それも宜なるかなと思うのです。この広大な空間にいて、まじめに働けば失敗するわけがない。それが、フリードマンの信念の背後にあるのでは、とさえ思えてくるのです。
もちろん、空間が広いといっても、無主の土地が今、あるわけもないのです。機会の国といっても、そう単純でないのは、言うまでもないことです。しかし、広さというのは、神さまの贈物というべきなのでしょう。イタリア人の楽天が、気候のせいなら、アメリカ人の開放性は広さのゆえです。
しかし、これはアメリカの一面です。エリアス・ゴンザレス事件で、連邦政府が強引にも、まるで子供を誘拐するみたいにして、父親の元につれていったことなど、別の一面です。国家意志を強固に打ちだす、というのも、戦後日本には、比較的みられない一面です。これは、風土というよりは、歴史の問題でしょう。それについては、また。
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高田一夫 Kazuo Takada(一橋大学)
Visiting Scholar
Institute of Labor and Industrial Relations,
University of Illinois,Urbana-Champaign
504 E. Armory Ave., Champaign, IL 61820-6297
〔2000年6月寄稿〕
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