社会政策学会 談話室




下山房雄

労研が学会本部だった頃のこと

  生前も、2002年6月の没後も、毎年2月末が近づくと私の労研時代(1958-67)の先生=藤本武さんのことが頭に浮かぶ私である。というのは、先生の誕生日が2月29日で4年に一遍しか来ないからだ。

  労働科学研究所(労研)が社会政策学会本部を、つまり藤本さんが代表幹事を引き受けたのは、紛争で殆どの大学がクタクタになった状態の1972-74年度のことだった。労研は東京・祖師谷から、川崎・菅生への移転を1971年4月に行っていた。会員もごく少数で、民間の(財団法人)貧乏研究所が学会本部を引き受けないわけにはいかない状況で、「本会の本部を東京都に置く」との学会会則1条を「本会の事務所は総会の定めるところによる」と改訂して、学会本部を労研に持っていったのである。
  私は既に横浜国大に移っていたが、研究所にはパートタイマーで週何日か通っていたので、学会事務担当として先生を支援した。その時のことを何か書いておくべきだと、「べきだ」の勧めに弱い私への 二村さんの注文でこの小文を書く。ただ手元に記録的資料の保存も無く、藤本さんとちがって至って記憶力の弱い私で ある。「多分そうだ」の程度で書くことをお許し願いたい。

  大学教員はルースなことが許され、時には美徳とされたりもするのだが、先生も私もルースなことは嫌いだったので、 とにかくキチンとやろうとしたことは確かである。学会年報編集委員会委員長として、藤本さんは1964-67年の期間、毎年刊行に尽力され、年報11-14集の形でほぼそれを実現した。しかし、大学紛争でそれが再び崩れてしまったのが、1974年以降は毎年春に必ず刊行されることとなった。具体的にどういう措置をとったかは全く記憶が無いが、労研・ 藤本=本部・代表幹事のもとで、そういう体制になったことは間違いない。

  改革のつもりで意識してそうしたと記憶しているのは、近年の「学会改革」で不合理だとして廃止された会員から徴収されるオカネの扱いだ。一つは、年度内で何月の加入でも同じ会費というのは気の毒というので、秋の学会以降の加入者の初年度会費を大幅割引にする措置。それから夫婦で会員の場合、年報代は一人分でよいとしたのも、私どもが提起して導入したものである。
  現代のセンスにはあわず廃止されてしまうことを、当時導入したのは、先生にも私にもこびりついた貧乏人的節約意識によっていると思う。特に先生は、第二次大戦後の労研財政困難の時期(困難はいまでも、というより程度を深めて続いているのだが・・)、各研究室が賃金を含め独立採算だった時期の経験が強く影響していた。昭和一桁生まれで残してはもったいないと食べる習性から脱却できず、体重過重→血圧高になってしまう私でも驚いた先生の習性に、貯炭式ストーブへの給炭をチョビチョビやるということがあった。そうしないと不完全燃焼になるからというのが、先生の理屈だった。私は「汽車の窯焚きではあるまいし・・」とボヤキながら、先生在室の折は間歇的に給炭して、先生不在の折はドッサリ貯炭する形で、ストーブを焚いた。まあ、こういうケチな生活の中で生まれた智恵で行った措置が、現代の進んだ会員の生活意識にあわないのも当然といえば当然なのだろうと思います。


〔2004年2月12日寄稿〕
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