社会政策学会 談話室




二村 一夫

小さな報告書の大きな波紋
     ──MITの女性教授差別是正宣言

  「なんで、コーネル・ウエストのことなんかに興味をもっているんだ?」と小さなパーティの席上で、高名な歴史家にたずねられました。どうやら同業者の間では、コーネル・ウエストの評判はあまり良くないようです。コーネル・ウエストと言っても、日本ではほとんど知られていませんが、アメリカでは、特に黒人の間では超有名人です。ハーバード大学教授は、医学部を除き2200人にもなるようですが、そのなかで十数人しかいない特権的なユニバーシティ・プロフェッサーの一人です〔なお肩書きは2002年3月現在。その後彼はプリンストン大学に移った〕。それより、昨年暮から新年にかけて、サマーズ新総長との〈喧嘩〉が大きな話題になりました。その事件に興味をもって調べているといったことに対しての質問が、これでした。
  「労働争議研究の応用ですよ。つまり、何か紛争がおこると、いつもは水面下に隠れている矛盾や対立が表に出てくるでしょう。そうした問題の起き方や、その処理の仕方が日本とアメリカの大学ではいろいろ違うことなど、ふだんなら見過ごしてしまうような事実がよく分かると思うから。」
 「それならサマーズとウエストの喧嘩なんかより、もっとずっと大きなテーマがあるよ。数年前にMIT(マサチュウセッツ工科大学)で、すでにテニュアをとっている女性教授たちへの差別が問題になり、それに関する有名な報告書が出ている。同じ調べるならその方が意味があると思うけど」と言われてしまいました。ご本人はe-mailはおろか、原稿を書くのにもいまだにペンで書いている方ですが、同席していたMITの、これも日本研究で著名な同僚教授が、翌日にはその報告書のPDFファイルをメールしてくれました。

  報告書は A Study on the Status of Women Faculty in Science at MIT と題するもので、すでに3年前の1999年3月に発表されたものです。題名を日本語にすれば「マサチュウセッツ工科大学理学部〔注〕における女性教員の地位に関する調査」とでも訳せましょうか。全体で17ページですが、ほとんど同じ内容の表紙が2枚ついていたり、目次や2次にわたる委員会メンバーの一覧、それに添付資料、しかもそのうち1枚は「このページは意図的に空白にしてある」という中味がまったくないものまであるので、実質は10ページにも満たない短い報告書です。内容も、委員会の審議経過をたんたんと述べているという感じです。正直のところ、最初これを読んだ時には「これがなんでそんなに重要なのだ」と思ったほどでした。

  それに、こちらはサマーズとウエストの喧嘩とは違って「事件」ではありません。そもそも対立関係が明確ではないのです。ことの発端は、1994年に理学部の女性教授数人が、建前上はないはずの女性差別が、現実にはさまざまな形で存在していることを問題にし、学内の同僚の女性教授たちを対象にアンケート調査を実施したことでした。ところが、この問題提起を理学部長が正面からうけとめ、各学科の責任者に女性教授を加えた小委員会を設け、5年近くもの歳月をかけて調査検討を重ね、その結果をとりまとめたのがこの報告書だったのです。内容は、MIT理学部の女性教授と男性の同僚との間には、給与やオフィスのスペースの広狭、研究資金、各種の賞、責任ある地位につけることなど、さまざまな側面において、意図的ではないにせよ、差別が存在することを公式に認め、その是正策をとることを宣言したものです。
  ですから、この報告書を手がかりに争議研究的な大学研究をすすめることは、ほとんど不可能です。もっとも、一女性教授の問題提起からこの報告書の発表までに5年の歳月が経過していることを考えると、実際にはさまざまな対立・葛藤があったものと推測されます。しかしこの報告書からそうした対立関係の存在を読みとることはできません。もちろん、関係者に個人的にインタビューするなどして調べれば、もっと詳しいことが分かるでしょうけれど、まだ現在進行形の問題だけに、つっこんだ調査は容易ではないと思われます。ただ、この小さな報告書で目を惹いたのは、テニュアのある古参の女性教授たちが差別の存在を強く意識しているのに対し、若手の女性教員は、gender bias(性別による偏見)があるとは考えていない、むしろ育児など家族的な負担の問題が大きいと答えている事実でした。

  しかし、この報告書について、インターネットのサーチ機能を使ってちょっと調べたところ、実は、これがとてつもなく大きな広がりをもつ問題であることが、分かりました。Google のAdvance Searchを使って「MIT、women、faculty、status、 study」の5つのキィワードすべてを文中にふくむファイルを検索してみたところ、なんと14,100もの結果が出てきたのです。その検索結果をすべてを直接それぞれのファイルに遡ってチェックすることは不可能ですからあきらめましたが、上位にでた結果をざっと見ただけで、アメリカ中の大学、とりわけ有名大学でこの報告書が問題になっていることが分かります。MITにならって委員会をつくり、女性教員の地位について調査をおこなっている大学も少なくないようです。この問題は、とても《談話室》で、簡単にご紹介するわけには行かないことがよく分かりました。これに首を突っ込んだら、今やりかけている仕事などはほっぽり出さなければなりません。
  ちなみに検索結果の冒頭は、1999年3月発行のMIT faculty newsletter 特別号のオンライン版です。そこには問題の報告書 A Study on the Status of Women Faculty in Science at MITの全文がhtml版で収録されています。また、PDF版も、ここでダウンロード出来るようになっています。

  この報告書の影響をきちんと調べることは、どなたかにお願いしたい気分ですが、確かなことは、MITが女性教員の差別是正にその後も本気で取り組んでいることです。2001年の1月には、ハーバード、スタンフォード、プリンストン、カリフォルニア大学バークレー校など全米トップレベルの9つの大学の学長や25人の女性教授らをMITに集め、この問題をめぐる会議を主催し、一致してこの問題について取り組むことで合意しています。さらにまた、つい数日前のことですが、今度は理学部だけでなくMIT全体として、この問題について取り組むことを宣言した The Status of Women Faculty at MIT を公表しました。その内容については同報告書の概要をご覧ください。その全文も、この概要のファイルからダウンロードできるようになっています。

  いま私に予想出来るのは、今後10年もたたないうちに、世界中のトップレベルの女性研究者がMITに集まるに違いない、ということです。おそらくMITも、そうした長期戦略をもってこの問題に取り組んでいるのではないでしょうか。ほかの国々の大学も、いまのうちに手をうたないと、女性の頭脳流出が大きな社会問題になるおそれがあります。

  もしこの小文を読んでくださる若い女性の研究者がいらっしゃったら、同じ勉強するなら日本はやめて、アメリカ、なかでもMITで勉強することを、本気で検討するようにお勧めします。現在の勉学や研究環境も違いますが、なにより研究者としての将来展望が、はるかに大き開けていますから。もちろん、世界中の意欲的な女性研究者がここをめざして来るでしょうから、競争も激しくなるに違いありません。とうぜん、それなりの才能と意欲、それに持続力がなければ無理ですが。
〔2002.3.24記、9.9一部改訂〕


【注】

 ★ MITの School of Scienceは、日本の理学部にあたるといってよいでしょう。物理、数学、化学、生物学、地球・大気・天体科学、脳および認知科学、土木・環境工学および生物学の7学科から成っている学部です。




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