二村 一夫
アイビーリーグのストーブリーグ
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ボストンは今フットボールで沸きに沸いています。16、7年前、阪神タイガースが優勝した時を思わせる、といったら分かっていただけるかもしれません。昨日おこなわれたNFLのスーパーボウルで、ニューイングランド・ペイトリオッツが初優勝したのです。シーズン前には、ほとんど期待されていなかったペイトリオッツでしたが、終盤になって抜擢された新人クオーターバックの大活躍で、あれよあれよと言う間に頂点をきわめたのでした。それもアメリカン・カンファレンスの準優勝戦では、雪の中の白熱戦を試合終了間際に逆転したり、スーパーボウルでも終了直前に決勝点をいれるというスリリングな試合をものにした結果でした。最近3試合、いずれも大方の予想は「負け」とされていたなかでの勝利で、大番狂わせの優勝でした。
ボストンは、かつてはプロバスケットボール(NBA)でセルティックスが8連覇という未だにやぶられていない大記録をたてるなど、プロスポーツでは伝統のある土地柄です。しかしその連覇も1950年代末から60年代にかけての話で、最後に優勝したのも16年前のことでした。MLBのボストン・レッドソックスも、ワールドシリーズで5回優勝している名門ですが、それは1910年代という大昔のこと。アメリカンリーグのチャンピオンになったのも1986年が最後で、ファンのいらいらが溜まっていましたから、今回はひさびさに鬱憤を晴らしてくれた快挙で、よけい大騒ぎとなっているわけです。
フットボールといえば、今シーズンはハーバード大学も絶好調で、アイビーリーグで優勝、それも9勝0敗という好成績でした。この無敗記録は、なんと1913年以来のことだそうです。言うなれば東京六大学野球で東大が優勝したようなものです。もっとも、まだ1回も優勝したことがなく、万年6位の東大野球部と比べたのでは、ハーバードのフットボール関係者に怒られそうですが。クリントン前大統領がハーバードに来て講演した時に大学が贈った記念品は、この優勝チーム全員がサインしたボールとハーバード・フットボールチームのジャージーにCLINTONの名を入れたものでした。チームの好成績に喜んだサマーズ学長は、試合の応援にかけつけただけでなく、ハーフタイムにはフィールドで教授連のスクラムに体当たりを敢行するというパフォーマンスまで見せ、その際ズボンがずり落ちて赤いブリーフが見えたなどというエピソードまで報道されました。
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さて、今回のタイトルは「アイビーリーグのストーブリーグ」ですが、これは別に大学スポーツの選手引き抜き問題ではなく、教授陣をめぐるものです。日本でも報道されたようですが、最近ハーバード大学の内紛が大きな話題になりました。ラリー・サマーズ学長が、アフリカン・アメリカン・スタディーズ、つまりアメリカ黒人研究学科の、コーネル・ウエスト教授を叱責したのが発端で、同学科の看板スタッフがそろってハーバードからプリンストンに移る動きが表面化したのです。これは、結局サマーズ学長が謝って、一件落着という形にはなっていますが、まだ決着がついたとはいえない状況です。
この紛争は、はからずもアメリカの大学間競争の一端をかいま見せてくれ、また大学の管理運営システムの日米比較の上でも、興味ある相違点を知ることができました。私は労使関係研究における争議研究の重要性を主張したことがあるのですが、これは高等教育機関の研究についても当てはまりそうだと感じたことでした。つまり、日常的には水面下に隠れて見えない問題──矛盾、対立、緊張など──が、紛争によって表面化し、よく見えることがあるのです。
今回の紛争の経緯やその当事者であるコーネル・ウエストとラリー・サマーズについては、私の個人サイトで詳しく書いていますので、ここでは省略します〔ハーバード大学の内紛および下記のリンク参照〕。水面下から浮かび上がって見えてきたことのひとつは、アメリカにおける大学間での教授引き抜き合戦の熾烈さでした。ご承知のとおりアメリカでは大学をさまざまな角度からランク付けする企業があります〔参照U.S. News.com〕。今回の内紛が多くのメディアに取り上げられたひとつの理由は、多分野でトップを争うライバル校同士の引き抜き合戦だったからでしょう。つまり同じアイビーリーグの一流校・プリンストンに、ハーバードの看板学科のアフロ・アメリカン・スタディズの中心メンバーがそっくり引き抜かれるかもしれないからでした。
そのなかの一人であるアフリカ哲学の専門家アピア(K. Anthony Appiah)教授は、すでに1月25日にハーバードを退職し、翌26日にはプリンストンでの採用が正式に決まりました。今回の内紛の発端となったコーネル・ウエストも、かなりはっきりとプリンストンに移る意向を示唆していますし、もう一人、アフロ・アメリカン・スタディズの責任者であるゲイツも遠からずプリンストンに引き抜かれる可能性が高いと見られています。プリンストン大学がアピア教授の採用を決定したことを報じたニューヨークタイムスが、これはボストン・レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースに引き抜かれたベーブルースほどの大ニュースではないがと言いつつ、アイビーリーグのライバル校同士の競争を伝えています。一方、スタッフを引き抜かれたハーバードも、すかさずシカゴ大学のCenter for the Study of Race, Politics and Cultureの所長マイケル・ドウソン(Michael Dawson)教授の採用を公表しました。
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こうした引き抜きが可能であるのは、ご承知のようにアメリカの大学教授の処遇が、大学と各教授一人一人との間での個別交渉、個別契約で決まるからです。日本の大学教授のように、所属する大学と年齢が分かれば、ほぼその給与が推測できるのとはわけが違います。私のささやかな見聞のなかでも、カリフォルニア大学バークレー校の社会学の看板教授がハーバード大学から移った時には、俸給だけでなく、住宅や個人秘書などの提供が条件だったと聞いたことがあります。またスタンフォード大学の歴史学教授の場合は、ハーバードから提示された条件をスタンフォード側に伝えて交渉し、大学側がこれを上回る処遇を認めたので、気候のよいカリフォルニアに留まったと本人から聞きました。自分を高く買うところへ移るのは経済原則からすればきわめて当然の行動様式ではありますが、仮に私自身がそうした立場に置かれ、いつでも自分を高く売り込むことを考えていなければならないとすると、精神的な負担は小さくないなと思ったものでした。
そうした個別契約が可能であるのは、人事に関する学長の権限が大きいからだと思います。また逆に、個別契約だから学長の権限が強くなる側面もあるでしょう。日本の大学のように給与は有能無能にかかわらず同一年齢でほぼ一律、採用人事は事実上教授会が決めるというのでは、こうした引き抜きは不可能です。もちろん日本でも研究環境や大学の社会的評価によって引き抜き的な動きはありますが、相互的な引き抜き合戦というより、社会的評価の高い方への一方的な流れになりがちです。アメリカの場合は、今回のケースのように、しばしば一流校同士での引き抜き合戦のかたちをとることが少なくないようです。
もともと、ハーバード大学のアフロ・アメリカン・スタディズが、〈ドリーム・チーム〉と呼ばれるほど著名な研究者を集め、大学ランキングでダントツになったのは、前学長のニール・ルーデンスタインの方針によるものでした。10年ほど前まで、同学科は白人教授1人が少数の学生を教えているだけの目立たない学科だったのを、前学長が大学の「多様性(diversity)」を重視し、ヘンリー・ゲイツ(Henry Louis Gates, Jr.)教授を責任者として優秀なスタッフを集めた結果でした。実は今回の内紛の発端となったコーネル・ウエストも、1994年にルーデンスタインとゲイツの働きかけで、プリンストンから引き抜かれてきたのです。ウエストをふくめ、この学科にはハーバードの2000人のファカルティ・メンバー〔注〕のなかでたった14人しかいないUniversity Professor〔特定の学部学科に所属せず、どこで講義をすることもできるし、しなくても済むという教授のなかでもっとも特権的なランク。もともとはノーベル賞クラスの学者への処遇だという〕が2人もいます。こうしたことも、おそらく外部からの招聘時に提示された条件のなかにあったものでしょう。目玉になる学科には金を惜しまずつぎこみ、それが大学の発展につながり、また外部資金導入の際にも有利な条件をつくりだすというわけです。現に、ウエストの最初の講義の時には600人を超す学生が集まり、準備した教室では入りきれず、近所の教会を借りたほどだったそうです。
もうひとつ、引き抜きを可能にしている条件は、予算規模が巨大で、その支出について学長の裁量の余地が大きいことも忘れてはならないでしょう。その背景には360年余の間に蓄積してきた基金(Endowment)がものを言っているのであろうと思われます。しかし、この部分は外からは容易にうかがい知ることができない部分です。これを議論しだすと、気軽に読んでいただけるものという本《談話室》の趣旨に反しますので、今回はここまで。
【注】
★1)このファカルティの数は、医学部を除く数です。医学部には8700人ものファカルティ・メンバーがいるそうですが、投票権をもつ教授、助教授はそのうちの3000人だけです。そのほか、学生数、予算規模などハーバード大学の基礎的な数値については、Harvard Statistics"Quick Facts" で知ることができます。より詳しい数値は、The Harvard University Fact Book にあります。
★2)ハーバードが実際にどれほどの財政規模なのか、公表データ(Harvard Statistics"Quick Facts)" によれば、収入22億ドル($2.2 billion)、支出20億ドル($2 billion)です。つまり支出総額を日本円にすると約2600億円ということになります。これは東京大学を少し上回る程度の金額で、実際よりかなり少ない数値ではないかと思われますが、はっきりしたことは分かりません。おそらく各研究機関(たとえばライシャワー研究所やエンチェン研究所など)が独自に所有している基金からの収入は含まれていない数値、and/or 医学部関係が除かれている数値なのでしょう。ちなみに学生からの授業料は大学運営の費用の4分の1だと聞きました。授業料は1人年間、23,457ドル、ざっと300万円です(ほかに寮費などがあるので、納付金の総額は年間34,269ドル)。あとはさまざまな寄付金、基金183億ドルからの果実、連邦政府や州の援助で、それぞれ4分の1くらいだろうということでした。
〔2002年2月4日寄稿〕