社会政策学会史料集





社会政策学会弁明書をめぐる論争

田口卯吉「社会政策学会の弁明書を読む」

片山潜、阿部磯雄、木下尚江等の諸氏が、社会民主党と称する一団体を組織し、政府より解散を命ぜらるゝや、和田垣謙三、金井延、桑田熊三諸氏の組織せる社会政策学会は、世の誤解を恐れて一箇の弁明書を公にせり、其の文の要旨は前号に掲載したれば、読者諸君の既に熟読せられし所なるべし、余輩の見る所を以てするに、此の弁明書は却て幾多の疑念を同会に集めたるが如し、現に阿部磯雄氏の如きは、則ち社会政策学会員諸氏が同視せられんことを恐れて態々弁明書を出すまでに排斥したる社会民主党員の一人阿部磯雄氏の如きは……此の弁明書見て、却て社会政策学会を以て自己の同類となし、書を毎日新聞に寄せて曰く、
 余は素より諸君と同く社会主義が社会政策と同一のものにあらざることを信ずるものなりと雖、決して二者が相背馳せるものなりとは思はざるなり、少くとも余等社会主義者の眼より見れば、社会政策なるものは社会主義に到達する一階級なるが故に、これに対して聊か悪意を懐くことなく否寧ろ之を歓迎せんと欲するものなり、唯々余等が諸君と一致し能はざる点は、社会政策を以て社会問題最後の解釈法と為さゞるに在るのみ、之を例へば諸君は京都まで旅行すべしと云ひ、余等は更に進んで神戸まで行くべしといふに在るが如し、云々
余輩は阿部氏の此の希望の無理ならざるを見るものなり、共に製造主の専横を悪むものなり、共に労働者に同情を寄するものなり、共に法律を以て労働時間を制限せんと欲するものなり、共に法律を以て労働保険を制定せんと欲する者なり、唯々異なる所は社会主義者は結局資本を公有にせざれば此の弊を除くべからずと信じ、社会政策学会諸氏は此の如くに為さずとも能く其の弊を防ぐことを得べしと信ずるにあるのみ其の異なる所単に此の如きに止まる以上は、阿部氏が社会政策学会諸氏に向ひて同行を希望するは至当の要求と云はざるを得ざるなり、
阿部氏等が社会政策学会員諸氏の主意を解せざると同く、余輩自由放任主義者も亦諸氏の主意を解する能はざるなり、余輩は第一に
 余輩は放任主義に反対す、何となれば極端なる利己心の発動と、制限なき自由競争とは貧富の懸隔を甚しくすればなり、
と云へる冒頭の文中に於て、極端なる利己心の発動とは何の意義なるやを解する能はざるものなり、余輩は諸氏が極端なる利己心とは真逆に盗賦詐欺取財の如き悪事を意味せざるべしと信ず、余輩は諸氏の主意は自由競争の下に於て労働者若くは製造主が極端なる利己心を発動すると云ふにあることを認むるものなり、然れども余輩は政府が法律を以て労働問題に干渉する場合に於て、却て極端なる利己心の発動あることを見るものなり、試みに見よ、第一に
 製造主が奴隷を使役し、其の随意に定めたる賃銀を以て貨物を製造する場合の如きは、是れ製造主が極端なる利己心を発動したる場合にあらずや、
又第二に
 職工が団結して政府に迫り、法律を以て製造主が婦女、小童、若くは海外より低廉なる労働者を傭使することを禁じて、以ての其の賃銀を騰貴し、若くは其の就業時間を減縮せんとする場合は、即ち職工が極端なる利己心を発動したる場合にあらずや、
故に余輩は極端なる利己心は却て法律を以て之に干渉したる場合に発動することを見るものなり、
社会政策学会員諸氏は曰く
 現在の経済組織の基礎を為すもの二あり、曰く自由競争、曰く私有財産是れなり、此二者に対して公共の利益、国家の必要に応じて相当の範囲に於て之を制限するは、近世国家の当然すべきの任務なることは固より疑を容れざる所なり、
是れ自由放任主義の論者と雖、毫も異論なき所なり、夫れ箇人主義と雖、決して社会組織を無用とするものにあらず、道路を通じ、橋梁を架し、港湾を設け、警察を置き、国防を備へ、租税を徴して之を支弁することは、箇人主義より打算して最も利益なる組織なるべし、彼の実利主義則ち最多数者の最大利益を以て立法の主義となすが如きは実に箇人主義に準拠するものなり、去れば煉瓦家屋の間に茅葺家屋を築造するを禁ずるが如き、社会の費用を以て伝染病を予防するが如き、危険なる製造所に向ひて改築を命ずるが如き、皆多数の利益を保護するの目的に出づるものなり、之を再言すれば箇人主義と衝突せざるものなり、唯々労働問題の如く自由競争に放任して差支なきものに向ひて、政治干渉を試みんとするに至りては、余輩は其の経済の理に反するを以て反対せざるを得ざるなり、
余輩は如何なる属僚も其の長官に対し多少の不平なきにあらざるを知るなり、余輩は如何なる学生も其の教授に対して多少の非難なきにあらざるを知るなり、余輩は如何なる下女も其の奥様に対し多少の讒訴なきにあらざるを知るなり、之と同じく如何なる労働者も其の製造主に対して多少の不平なきにあらざることを知るなり、然れども余輩は之を以て立法の干渉を要するものとは信ずるを得ざるなり、今諸氏は則ち曰く極端なる利己心の発動と、自由競争とは貧富の懸隔を甚しくす」と、然らば則ち政府にして之に干渉せば貧富の隔懸を減ずることを得るや、否や、余輩は諸氏に向ひて其の証明を求めざるを得ざるなり、
製造主を以て労働者を虐使するところの悪魔と視做し、政府の干渉を待たざれば如何なる酷遇を為すやも計られざるが如く信ずるものは、経済の理に通ぜざるものゝ心なり、余輩は片山潜、阿部磯雄、木下尚江等の諸氏が、之を恐れて終に資本公有をも主張するに至りしことを無理ならずと信ず、何となれば諸氏は経済学者にあらさればなり、何となれば諸氏は諸氏は資本と労働と相調和するの理を講究したるの人にあらさればなり何となれば諸氏は単に労働者の貧困を憫み、製造主の富大を悪み、前者を利益し、後者を抑制せんとの惻穏の情を発したるものなればなり、然れども和田垣、金井等の諸氏に至りては実に我邦有数の経済学者なり、諸氏にして資本労働の調和の理を解せざるの理なし、然るに今其の文を見れば則ち曰く余輩の理想は労働と資本との調和にあり」と、夫れ労働と資本とは自由競争の下にありて既に調和せるなり、然るに諸氏は之を以て不調和となし、法制の干渉を之に加へんと欲す、余輩実に解する能はざるなり、
自由競争の下に於て資本と労働とは自ら相調和することは、今更事々しく論弁する程の必要もなき事なれども、余輩は近時の事実に於て特に世人の記臆を促すべきものあり、彼の紡績事業の繁昌するに当り、大阪なる諸紡績会社が争ひて工女を傭使せんとして、終に之を誘拐するに到りたる事、並に近時ハワイに於て日本の労働者欠乏に因り其の賃銀騰貴し、耕主の困難したる事是なり、此等の事実を目撃せしものは、製造主は決して労働者を抑圧するの権力なくして、自由競争の下に於て自然の調和を得るの理を悟るに難からざる事を知るなり、
余輩は社会政策学会員諸氏が東京市街鉄道事件を引証したるを怪まざるを得ず、其の言に曰く
 曽て東京市に於て市街鉄道問題の勃興せるに際し、自由放任主義に基ける私有論に反対し、社会政策の上より市有論を主張せるに徴しても、余輩の見る所を知るに足らん、
自由放任主義に基ける私有論とは、余輩は何の意味たることを解する能はざるなり、余輩の見る所を以てするに、当時如何なる民有論者と雖、此の鉄道を以て他の民設事業と同視し之を自由に放任すべしと論じたるもの一人もありしとなし、東京市民は未だ此の如く愚ならざるなり、唯々其の争ひし所は公納金の多少にありしなり、当時此の事に関与したる人物中にて、自由放任主義を主持すると評すべきものとては、田口卯吉氏其人の他に一人もなかるべし、而して田口氏の意見は却て渋沢芳野等市参事会員と共に、多く公納金を徴収せんとするにありし事は、世人必ず之を知らん、田口氏の如きは地主の専有を悪みて地租増徴をも主張するものなり、如何ぞ市街鉄道に於て私立会社の専有を許さんや、彼の醜穢なる民有論を以て自由放任主義に基くものとす、是れ自由放任主義者に対する非常の侮辱ならざるべからず、況や此の場合に於て一人も此の鉄道を以て自由に放任すべしと論じたるものなきに於てをや、
余輩は労働者の苦情の声を聞くこと久し、余輩は常に彼等をして経済の理を知らしめんことを勉むるものなり、余輩は常に彼等に向ひて製造主は彼等を苦むるものにあらずして、却て彼等に職業を与ふるものたるとを説けり、余輩は常に彼等に向ひて製造主が富めば富む丈け職工は多分の賃銀を受るものたることを説けり、余輩は常に彼等に向ひて欧米に於ける労働者が我邦より多額の賃銀を受くる所以は、其の資本の豊富なるに基く事を説けり、余輩は此の点に於ては平生随分国家の為に焦慮せるものなり、余輩は実に他の経済学者が余輩と共に経済の理を説きて彼等に説諭せんことを希望するものなり、然るに今や我邦に於て経済学を専攻する所の学者たる和田垣、金井、桑田の諸氏をして資金労働調和の理を解せずして、却て立法の干渉を要望せしむるを見れば、余輩は私に学理を解する者の寥々たるを歎ずる耳ならず、労働者が之に力を得て益々製造主に反抗し、資本労働の調和を害するに至らんことを恐れざるを得ず、蓋し政府の干渉を以て資本労働の調和を計り、貧富の懸隔を救治せんと欲するが如きは、焉ぞ空想にあらざるなきを得んや、諸氏果して名案あらば、請ふ之を説明せよ、然らざれは世人は諸氏を目して社会主義者と同視する事阿部氏と同じからんとするなり、

〔2008年1月5日掲載〕


『東京経済雑誌』第1090号(明治34年7月20日)





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