社会政策学会弁明書をめぐる論争
安部磯雄「社会政策学会会員に質す」
余は数日前本紙に於て社会政策学会の弁明書なるものを読みたり、其本紙に転載せる処のものは其中の一部に過ぎざるが故に、之に向つて詳細の批評を試むること能はずと雖も、其末段に見はれたる処のものに関しては余沈黙を守ること能はず、茲に卑見を陳して社会政策学会々員諸君の猛省を乞はんと欲す
此度諸君の発表せられたる趣意書なるものは社会政策と社会主義とを弁別し、先般設立せられて直ちに解散せられたる社会民主党の綱領を弁難し、以て自ら社会主義者にあらざることを明示せんとするものたるや明かなり、余は素より諸君と同じく社会主義が社会政策と同一のものにあらざることを信ずるものなりと雖も、決して二者が相背馳せるものなりとは思はざるなり、少くとも余等社会主義者の眼より見れば、社会政策なるものは社会主義に到達する一階段なるが故に、これに対して聊かも悪意を懐くことなく、否寧ろこれを歓迎せんと欲するものなり、唯余等が諸君と相一致し能はざる点は、社会政策を以て社会問題最後の解釈法と為さゞるに在るのみ、これを例へば諸君は京都まで旅行すべしといひ、余等は更に進んで神戸まで行くべしといふに在るが如し、更にこれを言へば諸君は中学教育を以て足れりとし余等は大学教育にまで進まざれば人生の目的を達する能はずと言ふに在るが如し、余等社会主義者は進行の順序として社会政策主唱者の経過すべき処を経過せざるべからざるを信ず、素より今日の社会が一足飛にして社会主義の理想に達すべきことは殆んど望むべからざることたるべし、これ吾人の目的が社会主義に在るにも拘はらず、尚ほ社会政策てふ順路を経過せさるべからざるを信ずる所以なりとす神戸に到らんとするものが京都を経由したりとて何の怪むべきことかあらん、大学教育を受くるものが中等教育を受くるは自然の順序にあらずや、諺に曰く大は小を兼ぬると、社会主義者が社会問題解釈法として社会政策をも含有せることは至当の事と言ふべきのみ
諸君は社会主義者たるの寃名を蒙らざらんが為に、此度社会に対して弁明書様のものを発表せられたれども、余等は諸君に対して少しも絶縁的の文句を並べるの理由を有せず、何となれば社会主義の実行期し難き日に於ては、せめても社会政策の実行を見んことを余等希望すればなり、社会政策は社会主義に到達するの階段として必要なるものなるが故に、余等は未だ嘗つて之に対して反対の意見を有したることあらず、されば余等は飽くまでも社会政策を採る処の諸君に同情を表し、諸君を兄弟分として見つゝあるなり(諸君には迷惑かも知らね共)然れども、諸君が社会政策を以て諸君の専売物の如く考がへ居るは、余の甚だ怪訝に堪えざる所にして、深く諸君の為に惜む所なり、凡そ社会の為に尽すの途何ぞ一二にして限らん、人々が採る所の方法如何に異なるも、若し其為す所にして社会の進歩に裨益する処あらんか、何れの事業も人々の同情と賞賛を惹くべきにあらずや、単に己れの採れる方法をのみ是なりとして、他の改善事業を顧みざるが如きは、これ最も其人の狭量を示すものと言はざるべからず、余等が社会主義を採るに拘はらず、同時に社会政策に多くの同情を寄する所以のものは全く此理由に外ならざるなり、主義の為に尽すは善し、然れども社会福祉の為に尽すは更に善にして大なる事たるを忘るべからず、
社会民主党の綱領中に社会政策の含有せられ居るは素より当然の事にして寸毫も怪むべき処なし、然るに諸君は恰も自己の領分を侵されたるが如きの口調を以てこれを弁難せり、甚しきに至りては「工場法、職工組合、消費組合の如き社会政策は社会主義者の理想とせる土地資本公有の主義と何等の関係なきものたり」と論ぜり、鳴呼これ果して社会問題を知れるものゝいふべき言なるか、余が已に重複説きたるが如く社会政策も社会主義も詮じ来れば社会改善の手段たるに過ぎず、鉄丸に貫かれたるものに繃帯を加ふるも、更に後日に到り一局部を切断して大治療を加ふるも、同じく是れ人命を救ふの手段たり、何ぞ何等の関係もなしと冷淡に論じ去るを得んや、更に諸君が民主党の綱領中に社会政策の個条あるを見て、『彼等は(社会主義者)其主義たる架空の臆説にして到底実行する能はざることを発見し終に我等の主張するものを取り之を以て其旗幟に銘するに至りしのみ是れ実に社会政策は社会問題を解釈する唯一の方法たることを証明するものに非るか』と言へり、何ぞ自惚の甚しきや、是れ恰も京都まで旅行するものか、神戸行の旅客を罵りて、『汝は生意気に神戸まで行くことを自慢し居れども、矢張り京都までの行程を辿り来りしにあらずや』と言ふが如きものゝみ、余は世間往々社会主義と社会政策の関係を明にせざるものあるを認めしと雖も、諸君にして斯る見易きの理を悟らざらんとは考へざりき、想ふに諸君は社会主義の寃名を蒙らざらんが為め、自己の地位を弁護するに急なるの余り、終に此誤謬に陥りしにあらざるか、余等は決して諸君を排除するものにあらず、諸君若し静思自ら心に問ふ処あらば、諸君も亦吾人を以て排斥せざるべからざる程に危険なる論者とは思はざるべし、要は度量の広大なるに在り、諸君以て如何となす
〔2008年1月5日掲載〕
「東京毎日新聞」明治34年7月12日による