「社会政策学会」と「経済学攻究会」とは、其発芽の時期が
「社会政策学会」の
「四月二日午後三時半頃新橋有楽軒に到る。加藤氏、織田氏既に在り。次で桑田熊蔵氏来会。社会問題研究会( Verein für Sozialpolitik )を設くることに就き協議す。」
加藤氏とは、最近まで大阪
「四月二十六日午後庚午倶楽部に至る。織田氏、桑田氏、鈴木純一郎氏、小野塚喜平次氏、高野岩三郎氏在り。社会政策の研究会創立の相談をなし、営業に関する憲法上の解釈と独乙 営業法の解釈とを次会の問題となすことに決す。」
鈴木純一郎氏は当時浅草蔵前の高等工業学校の講師で、社会問題研究者の一人であった。小野塚氏と高野氏とに就ては云ふまでもなく、何等説明を要しない。
「五月二日 午後二時過ぎ外神田の青柳に到る。織田氏、桑田氏、鈴木氏、小野塚氏、高野氏、田島氏既に在り。我憲法は営業の自由を保障するや、法律を以て之を規定すべきや等の問題よりして工場建築職工使用に関する規定も亦法律を以てすることを可とす等の決議をなし、次回には同盟罷工に関する規定につき討議することとす。」
田島氏は後に京都帝国大学教授となった田島錦治博士である。
「九月二十二日 夜に入り今川小路玉泉亭に到る。来会者は織田、小野塚、鈴木、高野の諸氏。」
外神田の青柳又は九段下の玉泉亭は学生などの会合に適する貸席で煎餅を
其後の会合に就ては、私の日記は何等記述して居らぬが、其頃私は俗用の為め度々郷里に往復して欠席した為めであらう。昭和十年十二月四日発行の帝国大学新聞記念号に載っている高野(岩三郎)博士執筆の「『社会政策学会』創立の頃」から抄録して之を補足すれば左の如くである。
「十一月二十八日の午後に又同じ玉泉亭で、織田、鈴木、小野塚の三君と私(高野博士)とが落ち合ひ、会員の増加を計ること、並に研究を秩序的に行ふことを議決した。多分其頃のことであったと思ふが、ただ漠然と『社会政策の会』といはずに改めて『社会政策学会』と学の字を入れて貰ひたいと云ふ意見が小野塚君から出た。
翌十一月二十九日夜、私は矢作君を訪ねて入会を勤めて承諾を得た。
更に十二月一日の午前、大学に行って金井博士に面会し、入会を求めた所、幸にして承諾を得た。私達に初めて社会政策について話してくれた博士と『学会』との関係はこの時に結ばれたのである。」
此会も其起源は同じく明治二十九年で、私の日記には左の如く書いてある。
「十一月十六日東洋経済新報社の招きにより午後四時過ぎ八丁堀偕楽園に到る。来会者は和田垣、天野二氏を始として二十余名、皆な少壮にして学識を備ふるの士。町田氏の挨拶、二三の演説あり。次で、支那料理の饗応を受く。」
和田垣氏は和田垣謙三博士で、天野氏が天野為之博士であることは云ふまでもない。町田氏は前内閣の商工大臣町田忠治氏に他ならぬ。東洋経済新報社は明治二十八年に町田氏の創設したもので、同氏は記者であり又経営者であった。当時は田口博士の東京経済雑誌が最も有力な経済雑誌で、之に対峙せんとして発行されたのが東洋経済新報である。東京経済雑誌には、其傍に今日も存在する「東京経済学協会」があったので、町田氏も之に倣って一の学会を設けようとして、上述の会合を催ふしたことゝ想像する。其後、町田氏が日本銀行に入ったので、雑誌の主宰は天野博士が之を引受け「経済学攻究会」は出来たが東洋経済新報とは終に結び附かなかった。私も明治四十年代に十年間許其幹事を勤めたことがあるが、成文の規則のあったことは忘れて居った。然るに、先頃
経済学攻究会規約
第一条 本会ハ経済学ニ関スル事情ヲ攻究スルヲ以テ目的トス
第二条 本会ハ毎月一回例会ヲ開クモノトス
第三条 本会ニ幹事二名ヲ置キ一切ノ会務ヲ処理セシム、幹事ハ出席会員ノ選挙ヲ以テ之ヲ定メ其期限ハ一ケ年トス、但再選スルコトヲ得
第四条 本会ハ各会員ヨリ会費トシテ一ケ年金一円宛ヲ徴収シ集会ノ費用ハ其都度出席会員ノミ之ヲ分担スルモノトス
第五条 入会ノ件ハ会員ノ協議ヲ以テ之ヲ定ム、又退会セントスル者ハ其旨幹事ニ通告スヘシ
明治三十年四月
経済学攻究会幹事 和田垣謙三
鈴木純一郎
是より先き、同年三月二十五日附を以て「経済学術語対照表」第一回が和田垣、鈴木二氏の名で発表され、其終に「
和田垣博士は、上記の如く、其名義は一幹事であったが、会員一同からは会長のやうに考へられ、歿せられるまで先生は此の地位に居られた。上掲の規約に依れば、入会は会員の協議を以て之を定めるのである。実際は何人かゞ推薦を為し、初は全会一致を要したが、後に出席者の三分の二以上の賛成と改め、当選者には幹事から之を通知して入会を勧誘すると云ふ慣例で入会の希望があってから選挙を行ふのではない。
本会も設立後既に四十年を経て居るので、最も古い学会の一であらう。例会は毎月開かれる慣例で、講演が主であるが、老人と少壮者、学者と実際家、其他総ての出席者の間に遠慮のない談話が交はされるので、至極アンゲネームな一種の社交機関ともなって居る。講演は近時諸処で行はれるから、此点から見た本会の重要性は或は減じたかも知れぬが、上述の社交機関としての存在は依然有意義と思ふ。最初から会員であった私などは、細くとも長く存続することを切望するのである。
初出は一九三五(昭和一〇)年一二月発行の『経友』、『貨幣瑣話』収録にあたり増補。
山崎覚次郎『貨幣瑣話』一九三六(昭和一一年)刊、所収。