帝国大学令が発布せられたのは明治十九年のことであったが、その時以来、法科大学の所管確立し政治学理財学のごとき、それまで文学部に包含せられていた学科目が法科の方に移ったのである。同時にこれらの学科を専攻する学徒の間に従来関係していた文学会から別れて新しい学会を起そうという機運が起りつつあった。ちょう度そのころ、憲法発布について苦心しつつあった伊藤伯の方でも、立憲制度を国民に理解させる目的をもって、国家学研究を目的とする学術団体を作る必要を唱えていたので、この双方の要求が期せずして一致した結果、明治二十年の初めに国家学会が創出せられたわけである。
大学の中にこのような学術団体ができたことはもちろん、伊藤伯初め当局の奨励があずかって力あるが、しかし、当時の社会に自由民権の空気が活発に動いていて、それが法科系統の学徒に刺戟を与えたという事実も忘れてはならないと思う。
私はいわゆる二十八年組の一人であって、国家学会ができてから数年後に大学に入ったわけであるが、すでに小学校時代から第一高等中学校にいたころにわたり、世間に漲っていた自由民権の空気を強く感ぜずにはいられなかった。この点は同級の親友小野塚〔喜平次〕、矢作〔栄蔵〕両君についても同様であった。私は早く父を失った上に兄が渡米して学資を貢いでくれ、母と貧乏暮しをしながら学校生活を送っていたのであり、矢作君も埼玉の農村出であったから、農民生活の苦汁は相当に知っていたのである。ただ小野塚君だけは生活の苦しみは知らずに育った男だが、郷里の越後長岡というところが薩長政府を批判的見る風習をもっていたり、祖父君や父君が硬骨漢だったりした関係から、不思議に反抗的気分をもっていた。このころ、面白かったのは、矢作君と私とが小野塚君に向って「われわれは貧乏の中より生長した者だから、社会問題に関心をもつのは体験からきているが、君は貧乏の味を知らないのだから、付焼刃だ」というと、いつも小野塚君は「いや体験がなければ判らぬというのは小乗的で、自分のように一段高所に立って世の中を見て、同情する方が大乗的でこの方が本当だ」と反駁するのを常とした。
そんな戯談をいいながら、私たち三人は仲善く助け合ってきたのであって、学生時代から何となく、社会主義とか社会政策とかいうことに興味を惹かれ、将来は何とかして下積階級のために尽したいという気持をみなが絶えずもっていた。
大学の連中が社会主義に関心をもつようになったことについては何といっても和田垣〔謙三〕教授の存在を第一に挙ぐべきであろう。同教授は明治二十一年三月の『国家学会雑誌』に「講壇社会党」を発表せられ、ついで同じ年の十一月二十五日の大学通俗講演会において「社会主義」と題する講演をせられたが、これは翌二十二年一月及び二月の『東洋学芸雑誌』に収録せられている。その前後、やはり社会主義を取り扱ったものとしては、岡田良十氏「社会主義の正否」(『哲学雑誌』二十一年七月)、元良勇次郎氏「所有物の性質を論じて社会主義を評す」(『文』二十一年十二月及び二十二年一月)などがあった。和田垣教授はドイツ流の講壇社会主義について説かれたのであって、私たちの聞いた講義の中にもそのようなことがあったことを記憶する。
同じく大学の連中が、社会政策のことをきいたのは、金井〔延〕教授からであったと思う。教授はたしか明治二十三年の暮に帰朝せられたが、大学で「経済学」の講義を始められた。私がきいたのは、その第三回の講義であったと覚えているが、その時のノートが手元に残っていたので、最近に読み通してみたら、その中にドイツの社会政策協会のことについてかなり詳しく述べられているのを見出した。
年度によって記するならば、私は明治二十六年から二十八年まで、和田垣教授から経済史と経済学史との講義を聴き、金井教授からは二十五年から二十八年にかけて講義をうけたわけである。ついでに私一身に関して記しておきたいことは、家兄房太郎のことであって、兄は明治十九年に年十九歳にして桑港に渡航し、始めは日本雑貨店を営み、その後は家庭労働のいわゆる皿洗いに従事するかたわら、労働組合運動に対する関心を深め、ついにA・F・Lのゴムパース氏と親交を結ぶに至った。せんだってもかたづけ物をしていると、兄の遣物の中からA・F・Lのマークや、日本におけるこの運動のagitator証などが出てきたので、今更のごとく感慨に打たれたことであったが、私自身の社会観に対しては、この兄の存在は一の大きな影響を及ぼしたことはおのずから疑う余地がない。
後に社会政策学会の設立に寄与した友人たちの動静を、ここでちょっと述べておいた方がいいかと思うが、明治二十二年七月に山崎覚次郎君と織田一君とが政治科を卒業し、その翌年暮に、前いったように金井博士が帰朝せられた。
更に翌二十四年に山崎君は親戚の丘浅次郎君と相携えて外遊の途につかれたが、その時、金井博士からコンラード氏への紹介を得ていかれたという話である。ドイツに着かれてから、たしか一木〔喜徳郎〕博士と同宿せられたと聞いたように記憶するが、ワグナア氏について、高名の経済学者は誰かときくと、ライプチッヒのピュヒア氏だと教えられたので同氏の講席に列らなられたものらしい。ピュヒア氏は学生を督励して産業調査をやっていたが、山崎君にも日本のことを書き入れよと勧めて調査用紙を呉れたそうである。この時のGewerbeに関する調査が間接にわが社会政策学会の創立当時に因縁をもっているのだから、このことをやや詳しく記しておく。
山崎君外遊の明治二十四年七月には窪田静太郎君が法律学科を卒業した。またこの年以後田島錦治君は金井教授の講義をきいているが、彼は私より一年上級であった。
同じ二十四年は陸奥農商務大臣が各地の商業会議所に職工条例制定の可否を諮問した年にも当っていた。
翌々二十六年には桑田熊蔵君(政治)、中村進午君(独法)、中島信虎君(法選、当時の葛岡信虎君)等が卒業した。仁井田益太郎君も同じ年に法科を出ている。ついで、二十七年には田島錦治君(政治)や清水澄君(仏法)が卒業し、田島君は大学院に残って「社会主義」を研究題目に選んでいた。越えて二十八年七月、小野塚、矢作両君や私などが政治科を卒業して三人手を携えて大学院に席をおくことになった。小野塚君はかねての望みによって政治というものを科学的に研究するというので「政治学」を専攻科目に選んだが、矢作君と私とはそれぞれ「農業経済」と「工業経済」とを専攻することに定めた。
このころ、私は糊口のことで、小野塚君や金井教授に大変心配をかけたりしたが、日本中学で西洋史、日本史、ドイツ語の教師となり、続いて間もなく和仏法律学校(今の法政大学)で経済学の講義を受持つようになったのも思い出の深い話である。
同じ二十八年の十一月に五年ぶりに山崎君が外遊から帰ってきた。そしてそのことが、わが社会政策学会誕生に重大な関係をもったのである。
翌二十九年の春になって、右記の人々の間に何か同気相求むといったような機運が醸成せられてきた。
まず四月二日の午後三時半から新橋にあった有楽軒(カッフェふうのもの)に山崎、桑田両君並に山崎君が外遊中にドイツで相知った加藤晴比古、織田一の両君の四人が集まって、社会問題研究会( Verein für sozialpolitik )を設立する相談をしたそうである。これは桑田君の提唱になるものであった。
同月二十五日に至って田島君から私に葉書がきて、桑田君の発起により社会政策に志ある者の会合を設けるため第一回を明日開くという通知があった。葉書は小野塚君にもきた。だから会そのものは、桑田君の発議で山崎君等が賛成した形であったが、小野塚君と私とを勧誘したものは田島君であったということになる。
そこで翌四月二十六日午後、小野塚君と相携えて私は始めて麹町区有楽町二丁目(日比谷)の甲午倶楽部にでかけた。会するもの桑田、織田、山崎の諸君と外に鈴木純一郎君。なお傍聴者として中村進午君あり、皆社会政策に志ある徒で、社会政策の研究会創立の相談した末、毎月一回会合し、まずドイツの営業条例( Gewerbeordnung )の解釈を基として研究することに決したが、次回は営業に関する憲法上の解釈を調べ、労働者に対する規定は法をもってすべきか、はたまた勅令をもってすべきかという憲法問題を議題とすることに決定した。
五月二日の午後、外神田の青柳亭に織田、山崎、桑田、小野塚、田島、鈴木等の諸氏と私が集まって議論した。まず「わが憲法は営業の自由を保障するや」を論じたが、答えは「否」ということになった。ついで「しからば法律をもってこれを規定すべきや」という点に移り、憲法上の問題としてはその必要なきも、法律をもって規定するを至当とするなどの話から、進んで工場条例の憲法上の位置を論じ、工場建築、職工使用に関する規定も、また法律をもってするを可とすと決議したりした。約四時間ぐらいも議論して後、次回は「同盟罷業に関する規定」について討論し、大阪では府令でこれを禁止したが、果してどうであろうかなどにつき議論することにして散会した。
五月二十三日の午後、神田今川小路の玉
ランドマンの話ついでに憶い出したが、山崎君はこんな経緯から農商務省に頼まれて同書を翻訳してやった。(また、これはずっと後の明治三十六年のことであるが同省の依頼によってシュルツェ・ゲファーニッツの『大工業論』を邦訳したこともあった。あの時、山崎君に向って田尻稲次郎博士が君は大工業論(ダイクギョウロン)という本を訳したね、といったという笑話が伝わっている。この本の序文において訳者の山崎君は工場法制定の必要を力説した。)
六月十三日の午後にも同じ玉
七月四日にはやはり同所に小野塚、田島、鈴木の三君と私と四人で集まり、雑談。
九月十二日の午後、玉
九月二十二日の夜、同所に例会を開いた。織田、山崎、桑田、小野塚、鈴木の諸君と六人集合、主として洋行談に花が咲き、遠からず外遊すべき桑田君のために山崎君が経験談を話したりした。
いよいよ桑田君外遊の日が迫ったので、十月四日に下谷の料理屋伊予紋において送別会を開いた。桑田、織田、鈴木、小野塚諸君と私。外に飛び入りで経済新報記者で後に専修大学の事務長になった鶴岡という人も参加した。
十月十八日に桑田君はフランス船で横浜を出立したので朝早くから同君を西村旅館に訪ねていって九時の出帆を見送った。同君は、「労働問題研究」を目的としていた。そのとき同君の親友で当時日本銀行の課長をしていた中島信虎君が見送りにきて、フランス語の通訳をしてやったりしていた。このとき以後、中島君は私たちの社会政策の会に入ったが、他に戸水寛人、窪田静太郎(内務省)両氏も同じころ、入会したように記憶している。
十一月二十八日の午後にまた同じ玉
翌十一月二十九日夜、私は矢作君を訪ねて入会を勧めて承諾を得た。さらに十二月一日の午前、大学にいって金井博士に面会し、入会を求めたところ、幸いにして承諾を得た。私たちに初めて社会政策について話してくれた博士と「学会」との関係はこの時結ばれたのである。記述が少し細かくなり過ぎたようでもあるが、一つにはこの際できるだけ詳しい記録を公にしておきたいのと、今一つには四十年近い昔において、私たちがいかに熱心に社会政策の会を催したかということを、例証したくもあるがゆえにほかならない。
この明治二十九年は日清戦後の好況を受け、日本の資本主義が頭をもたげ出した時に当り、労働運動の方面も一躍して活気を呈した。私たちの社会政策学会に熱中したものも、もちろんこの社会的環境に刺戟せられていたことは想像に難くないところである。この社会の動揺とこれに対する政府の態度の不徹底との対立している状勢に着眼し、その間に生ずべき犠牲をできるだけ少なくしたいというのが、わが学会の目標であった。されば役人の中にも前記の織田一君のごとく、私たちと同じ立場に立ち、同じ気持をもって社会問題の解決を計らんと心がけている者も絶無ではなかった。現に二十九年末に農商務省内に開かれた農商工高等会議に提出せられた諮問案中に「職工ノ取締及ビ保護ニ関スル件」というのがあり、その理由書に、
「本邦工業ノ発達ニ伴ヒ、旧来ノ毎戸製造ハ漸次工場製造ニ変遷スルハ勢ヒ已ムヲ得ザルノ情況ナリ、而シテ今ヨリ雇主職工間ノ関係ヲ円滑ニシ、資本ト労力トノ権衡ヲ維持シ、以テ相互ノ利益ヲ永遠ニ保全シ、以テ諸般ノ紛擾ヲ未然ニ防遏スルノ目的ヲ以テ必要ナル法令ヲ制定スルハ、工業発達上ノ緊急事件ナルヲ認メ、茲ニ其区域程度及方法ヲ諮問ス」
とあったのは、社会政策学会として、いわんと欲したところに多くの共通点をもっていた。不幸にしてこの問題は時機尚早として継続委員の手に引き渡されたが、農商務省高等官の職工条例制定に対する熱心はごうも薄らがなかった。
同時に、労働側においても、わが学会に交わりを深めんとする者が皆無ではなかった。たとえば私の兄房太郎のごときがそうであった。兄は前記の通り、明治十九年以来渡米していたが、桑港において、志を同じうする日本人諸氏と相謀り、二十三年夏、「職工義友会」を組織し、「欧米諸国における労働問題の実相を研究して、他日わが日本における労働問題の解決に備えんとする」を目的とした。ところが明治二十九年春、十年ぶりに帰朝して、横浜の日刊英字新聞ジャパン・アドヴァタイザアの記者となっていたが、同じ義友会の同志たちも、二十九年暮には続々帰朝した。そして翌三十年四月には東京内幸町に同じ名の「職工義友会」を起して、初めて印刷物をもって日本の労働者階級に組織的に訴えた。私の兄は迎えられてその運動員となったが、私の関係から社会政策学会とも全然没交渉ではあり得なかった。
現に二月七日午後の玉
ついで三月六日午後には初めて神田の学士会事務所に例会を開き、佐久間貞一、金井延、山崎、田島、小野塚、鈴木の諸氏と私とが研究的談話をかわした。
四月二十四日午後にも同じ学士会で会合、金井、織田、鈴木、田島、小野塚諸氏と私たち兄弟とが議論を戦わした。
五月八日午後にも学会の集合が催された。
越えて七月七日には田島、小野塚両君の外遊に対する送別会が上野精養軒において開かれ、同月十日に小野塚君の横浜出帆を見送りにいった。同君はこれより四年間日本を離れたので、桑田、山崎両君及び私とともに最も熱心な会員であった四人の中の半数が欠けることになった。このころ、会合はほとんど毎月一回開いていたが、ただ夏休みの間は休会したので、十月三日の夕方から久しぶりに学士会事務所に集まった。
この夜は招待せられた俵孫一君の沖縄談があり、終って学会として調査委員を置くこととなった結果、建部遯吾君と私とがこれに選ばれた。なお、当日、清水泰吉、窪田静太郎、片山潜諸君の入会を承諾することとなった。
ここでちょっと申しておきたいことは片山潜君のことである。同君は私の兄の友人で、兄がゴムパースまたはウェップ流の穏健な組合主義者であったのに反して、相当に進んだ理想的社会主義〔者〕であったのであるが、兄と一緒に社会政策学会に入りたい希望を申し入れていた。私の兄については問題はなかったが、片山君については会員一同難色を表した。そこで、六月二十五日に神田美土代町の青年会館で催された最初の労働演説会の模様を見た上で採否を決しようということになり、兄と片山君とのほかに、佐久間貞一、松村介石、城常太郎の諸氏が演説し、鈴木純一郎君と島田三郎氏とは出演することになっていたが病気で不参に終った。片山君については依然として不同意者が多かったように記憶するが、まあよかろうというようなことで会合に出席してもらうことになったものと思われる。
この明治三十年四月には社会問題研究会なども設立されており、同盟罷業は頻発し、また、片山君や私の兄などの関係して作った労働組合期成会の活躍によって労働組合も鉄工・鉄道工・活版工の三大組合を初め、ぜんじ結成されつつあった。
明治三十一年にはまず一月十三日夕、学士会事務所に例会を開き、金井、建部、鈴木諸氏、私たち兄弟ならびに臨時に和田垣謙三、戸水寛人の二教授も来会し、内田銀蔵君の沖縄土地制度に関する有益な報告があって後、戸水、内田両君は入会した。
二月二十三日夕の例会では岸本賀昌氏の談話の外に内田銀蔵君の報告があり、四月八日の例会には和田垣、金井、建部、内田、片山潜の諸氏と私との六名が集まり、このときも内田君から茨城県地方土地割換制度に関する講演があった。
同年夏、農商務省内の農工商高等会議は、工場法案を議会に提出しようとし、まずこれを全国の商業会議所に諮問した。そして高等会議はこれを修正可決したにもかかわらず、政府はこれを握り潰して議会に提出せず、ただわずかに農商務省内に工場調査会を設けて調査を重ねるのみに止まった。しかし、社会政策学会としてはこれを黙視するに忍びず、その通過を促進せんがために、上下両院議員数名にこれを話し、実業家の一部にも説明したが、いずれもミル流の自由放任論に支配せられて耳を傾けようとはしなかった。
そこで一歩進んで街頭に出で、広く天下に訴えようということになり、九月二十四日及び十月十八日の例会の後、十月二十六日の夜には、学会の主催によって神田の青年会館で講演会を催し、会員数名がことごとく工場法に関する政会演説を行い、世論を喚起しようと努めた。私も「職工証について」と題して一場の講演を試みた。
社会政策学会は少壮の学徒が始終会合し、なかなか活発に動いている。時には片山潜君のごとき人物も出入する。それに街頭に出て演説会を開く。これは油断できないというわけであったのだろう。その当時中島君が内務省にいる友人にきいたという話によれば、会員はいずれも警視庁のブラックリストに載せられていた。そしてなかんずく、桑田君は最も危険がられていたそうであるが、そのうちに会の本質が判明した上に、和田垣博士などが参加せられるようになった後は全く色眼鏡で見られるということはなくなったものらしい。
もっとも、そのころ、要路に立っていた人の間でも、金子(堅)、加藤(弘)、後藤(新)、石黒(忠)、三宅(秀)等という人々は労働者の立場に対しても相当な理解をもっていたように思われる。大隈伯が「将来日本に社会党が出来るとすればその首領たるべきものは、石黒か後藤かであろう」といったことさえあるくらいだ。
十一月十五日夕、学会は相会して坪井二郎氏から工場衛生の談話をきいた。
桑田君は在独中、一八九八年(明治三十一年)にケルン市に開かれたドイツ社会政策学会第二十五回大会に出席し、シュモラー教授の紹介によってこれに加入し、知名の学者、政治家、実業家三百名と席を列ねた経験をもっている。これはいわば、わが「学会」とドイツの同じ「学会」とが連絡をとった最初といって差支えなかるべく、桑田君にとってはもちろん、わが「学会」としても意味深き出来事であった。その桑田君は翌明治三十二年始めに帰朝したが、一月十三日夜学士会で開かれた例会に出席してすこぶる興味深い欧州視察談を私たちに聞かせてくれた。
そして私はその六月の六日にいよいよ東京駅を出発して渡欧の途に上り、明治三十六年三月まで四年間滞欧し、同四月一日に帰朝し、五月に法科の教授に就任した。
以上によって社会政策学会創立前後における同会と私との交渉は、ほぼ述べ尽したつもりである。
私の渡欧した翌年すなわち明治三十三年に入って、東京市街鉄道敷設問題につき市有論、民有論を挾んで世論ごうごうとして揚がり、学会は中島君執筆の「市街鉄道公有ノ議」を公表した。ところが東京電鉄関係者の雨宮敬次郎氏がある意図をもって学会に加入を申込んできたので問題が起った。さきに社会主義者片山潜君を入れるか否かということについて手を焼いた学会は、今また資本家たる雨宮氏を加えてやるかどうかということについて頭を悩ますこととなった。しかしこんどは比較的簡単に拒絶ときまった。
それと共にこの際改めて学会の社会問題に対する態度を明瞭に知らせる必要があるということになり、社会主義にも資本主義にも反対する意志表示をした有名な「社会政策学会趣意書」を公にした。これは最初に金井、桑田、加藤(晴)、中島の諸君が立案し、戸水寛人君が執筆した後、さらに中島君が潤色したものであったと伝聞している。
後に学会のためにあれだけ尽力した福田徳三君は、ようやくこの三十三年に帰朝して始めてこれと交渉をもつに至った。そして、同君と同じ高商の教授となっていた山崎君はもうその前年の三十二年に病気のため福田君の帰任を待たずして郷里の静岡県掛川に帰り、約三年間雌伏していた。また私の兄は三十三年に北清事変を機会として清国青島に渡航し、三十七年同地に病歿した。
私はその前年の三十六年に帰朝したこと右述のとおりであるが、それから後の学会との交渉を述べたいのであるが、あまり長くなるから別の機会に譲ることとしたい。
ただ一言、明治四十年に至って学会が第一回大会を帝大法科講堂に開き、工場法の討議を行った時、来賓として出演せられた法学博士添田寿一君がわが国の労働問題の解決に主従関係の利用を唱え、わがくにの淳風美俗論を説いたのに対して、小野塚、福田両君と私とが真っ向から反対して論駁し、桑田君から来賓に対して礼を失すると後でたしなめられた事件を今にして憶い出し、時あたかも退職手当積立制度を挾んで経済連盟の淳風美俗論と無産政党の法制化必要論との対立している昨今の事情と照し合わせて、多少の感慨なきを得ないことを記して一まず擱筆することとしよう。
社会政策学会の歴史は、昨年来各方面から資料を集めて、嘉治隆一君の手によって程なく編さんを了る手筈になっているが、ここにその中の一節ともいうべき部分で私の関係せるところだけを記して、帝大新聞の依嘱に応ずることとした。しかも近来身辺少しく多忙、したがって本稿もまた嘉治君の労を煩わすところ少なしとしない。
本稿中には記憶の誤りや不正確なる記事の少なからず存在することと思うが、これらは学会史の終了までにできるだけ補正したいと考えている。
初出は、帝国大学新聞創刊五十周年記念号、一九三五(昭和一〇)年一二月四日付、所載。
鈴木鴻一郎編『かっぱの屁』、法政大学出版局、一九六一年による。