〔前略〕
明治三十年代四十年代から大正十年までの間において、日本の経済学者の学問的友誼機関は社会政策学会でありました。社会政策学会の歴史や意義につきましてはすでにいろいろの研究があります。たとえば住谷悦治君の『日本経済学史の一齣』や嘉治隆一君の『明治の社会問題』があります。山崎先生の随筆もあります。特に私がここで説明することをいたしません。
それを、きわめて大まかに申しますならば、これは、従来のイギリス的自由主義経済学に対して、ドイツ歴史派的あるいは社会政策学派的経済学を代表し、その思想と学問によって、勃興期の日本資本主義に対する社会政策的良心であったということができると思います。
この会の会長、その代表者は、東京帝国大学教授金井延博士でありました。そしてその事実上の世話人は、その会の幹事であった桑田熊蔵博士(貴族院議員後に協調会理事)、高野岩三郎博士(東大教授)、塩沢昌貞博士(早大教授)、中島信虎(高等師範のち文理大学教授)の四先生でありました。そして事実上幹事に近い関係にあった先生は山崎覚次郎博士(東大)、矢作栄蔵博士(東大)、小野塚喜平次博士(東大)、福田徳三博士(東京高商)等でありました。
この会は、全国の大学および高等商業学校の経済学関係の教授と官界および政治界の準学者的名士とを会員として、その数は明治時代には数十人、大正時代には百数十人にのぼりました。そしてそれが当時の日本経済学者の全員でありました。明治の末年から大正の初めにかけ、それはそういう堂々たる学会でありましたが、創立の当時は右に述べた諸先生だけのごく少数のグループでありました。そしてこの会の事務所も、はじめは東京大学の経済統計研究室に、のちには経済学部研究室におかれていました。そして会長の金井先生は病弱で事務にはあまり当たられませんでしたので、事実、会の事務の中心は高野先生であり、先生と協力して先生の次に中心であった人は、社会政策学者として盛名の高かった桑田先生でありました。
このように社会政策学会は日清戦争後において日本の産業革命が始まり、社会問題がまさに興ろうとしていた時に、東大の新進学者を中心としたドイツ経済学のゼミナールであったが、その最初のテキストは、当時まだ草案であったドイツの『
この公的性質をもつようになった社会政策学会も、第一回大会は明治四十年東大に開かれた。従来の歴史により桑田先生と高野先生がその実質上の中心幹事であった。この大会は、それから毎年一回、東京および地方の大学において開かれることになり、じご大正十三年まで、すなわち前後十八年間日本経済学界の唯一の学会であった。私が学生であった時代、すなわち明治四十二年から四十五年までの間には早稲田大学、慶応大学などで大会が開かれて、私も当時の大学生として講演を聞きに参りました。そして前に記したような諸先生の顔をその席上で見覚えました。この会はどういう事業をし、どういう主張をもっていたかはこの会の年々の報告書が出版されており、またその要領は国家学会雑誌、国民経済雑誌、三田学会雑誌に出ていますからそれによって知ることができます。これはいわば当時の日本経済学者の檜舞台であって、二日にわたるこの会の研究報告と公開討論とは、当時の日本経済学界の努力の成果の展覧会であり、少しく誇張して申しますならば、日本の歴史派経済学、社会経済学派はこの論集に始まりこの論集に終わっているといってもいいでしょう。それは量において今日からいえば大したものではありませんが、その内容においては、われわれの先輩の努力が凝結して一団となているといってよいと思います。そしてこの社会政策学会会報の編集もまた大部分は、主として高野先生がやられたものであります。
私が大正八年大蔵省をやめて、新しく独立した東京大学経済学部の助教授となった時、高野先生のもとでこの社会政策学会の事務を東京大学経済学研究室でお手伝いしていたのは、当時そこの助教授であった森戸辰男君でありました。櫛田民蔵君は当時京都同志社大学の経済学部長をやめて、東京にきて再び東大経済学部の高野先生の経済学研究室に身を寄せて経済学部の講師になっていました。しぜんに従来からの関係もあって、友人森戸君をたすけて、やはり社会政策学会のお手伝いをしていました。社会政策学会の大会が近づくと、前年度の会報の印刷や校正に多忙でもありましたし、また大会のプログラムを作ったり、講師の依頼をしたりするのにも多忙であるように見受けました。私もこういう人々の友人として、大会の講演会のビラを書いたりなどいたしておりました。すべて高野先生の指図にしたがったものでありますが、われわれはこれをもって日本経済学会の大切な行事に対する一つのサーヴィスとして何ほどかの誇をもっていました。
当時、社会政策学会は、こういう年次大会のほかに月次の小集会をもっていました。それは、神田の学士会で開かれたものです。学士会はいまの学士会のところにありましたが、焼け跡に建てられたバラックで、粗末な建物でありました。月次例会は、その時々の問題を研究していました。たとえば外国留学から帰ってきた経済学者があると、かならずその話をきくことになっていました。また新しい法律ができると、その説明を当局者から聞くこともありました。東京会員は三十名ぐらいであったと思いますが、実際出席するのは多いときで十五、六名、少ないときは七、八名でありました。しかし各大学の若い人々が、ほかの大学の大先生の顔を知ったり意見を伺ったりするのに、この会はたいへんいい機会でありました。この時代になりますと、金井先生はもちろん小野塚先生や山崎先生はあまり出席されず、やはり一番よく出席されて事実上この会の主人であったのは桑田、高野の両先生でありました。
大正八年は、第一次欧州大戦が終って、日本の思想界がデモクラシーの大波に圧倒され、またロシア革命の影響によって、社会主義に目覚めようとしておった時であります。社会政策学会の月次例会においても、そういう問題がたびたび、またいろいろにとり上げられて、社会政策とは何ぞや、ということもしぜん問題となり、社会政策と社会主義との差などということも論じられるようになりました。そのうちに、この例会に集まる人々のなかにも新思想と旧思想の対立が何かにつけて現れようとしていました。私はある日、経済学部の研究室で、たいへん議論が当時の青年学者のうちに沸騰しておるのを見て驚きました。青年学者とは、櫛田、森戸、権田、細川、糸井等の諸君すなわち高野門下の諸君であり、また当時の思想界において新人として将来をもつと思われた人々であります。彼らはこういうことを議論しているのでした。すなわち、今や日本の社会政策学会は堕落をした。それは改組をするか、死滅するしかない。それを促すためにわれわれは社会政策学会を脱退しようではないかと。私はそれを聞いて、どういうわけでそういうことになったかといいますと、彼らはこういいました。昨夜、神田の学士会館で社会政策学会の例会があった。そのとき社会政策学会は、大阪の福祉協会とかいうある労資協調を目的とする会の宇野利右衛門という人の作った映画を見せた。その映画はストライキ映画ではあるが、ストライキはよくない、労資は協調すべきものである、ということを説教する映画であった。バカらしくて見ておられなかた。いやしくも現在のような思想が混乱して、学者が奮起しなければならぬときに、学者があんな映画を見ておるようでは、あんな会は存在する必要がない。会の幹事は桑田、高野の両先生であるけれども、両先生はあまりに無責任だ、反省を促すためにもわれわれは脱退する方がいいと思う、ということでありました。私はその会には出席していなかったが、そういう人々の心持もよくわかった。確かに社会政策学会はマンネリズムに陥る傾向があった。それで私は答えた。それでは社会政策学会が潰れる心配があるではないか、彼らはいった、潰れてもいい、とにかく退会届を出そうということに一決してこの人々が退会届を出しました。これが、その次の社会政策学会の例会の問題となった。そして高野先生も桑田先生もたいへん困られた。ほかの幹部諸君ともいろいろ相談をされたらしいが、何しろ事務局の青年士官がストライキをするのでは仕方がないというので、高野先生が一案を出して、われわれ旧幹事一同すなわち、桑田、高野、中島、塩沢等の諸先生がやめて幹事を新しくして、社会政策学会の生命を新にしようではないかということを申し出て、それらの諸先生もそれに賛成して、大正八年の大会までに、社会政策学会の幹事を一新することになりました。新に幹事に選ばれたのが、早稲田大学の北沢新次郎君、東京商科大学の藤本幸太郎君、慶応義塾大学の三辺金蔵君と東京大学の私でありました。
私が若輩にもかかわらず、なぜ社会政策学会の幹事に選ばれたかということは、もちろんよくわからないのでありますが、本来ならば森戸君がその選に当るはずであったのでありますが、たまたま森戸君は社会政策研究のため東大からの留学生として海外に出ることが予定されておりましたので、当分の間の代理として、森戸君に一番近い友人というようなことで、私にお鉢がまわったのだと思います。それで、私は新幹事の皆さんと相談して、大正八年度の大会を開いたり、毎月の例会を開いたりいたしました。この間に新会員の入会を促進することとなり、何人かの新しい学者を迎えて社会政策学会は活気を呈しました。が、このとき、会として一つの問題が起こりました。それは新会員の候補者のうちに麻生久君がおりました。麻生君は総同盟のリーダーとして、やや社会主義的主張をもっておりました。それで、社会政策学会は社会主義者を会員としうるやいなやが問題となりました。というのは会の綱領には、社会政策学会は、個人主義でもなく、社会主義でもなく、社会政策を主張するものである、という意味のことが書かれていたからであります。これが社会主義者をいれないという意かどうかが問題となったわけです。しかし新幹事会はこれを幅をもたせて解釈し、麻生君をも異議なく会員といたしました。
大正八年の社会政策学会が終わった日、恒例によって会員の懇親をかねて総会がありました。その席上福田徳三博士が立って「幹事の報告によれば、麻生君を会員として迎えたが、それはともかくとして、社会政策学会は社会主義者を会員としていいのか」という質問がありました。その時、会員のなかから特に福田先生に賛成する意見は出ませんでしたが、他の会員又は幹事より、すでに会員たる人々のなかには社会主義者と認められる人、またはみずからそう公言する人がある。たとえば河上博士、滝正雄氏(元京大講師)のごときがあり、先例上さしつかえないではないか、という議論が出ました。これにたいして福田先生の駁論があったので、多少問題が紛糾するのではないかと思い、幹事は新米ばかりで一同ハラハラしておりました。これには多少の背景がありました。というのは、当時はいわゆる福田、河上時代でありまして、両先生が二つの学説の代表者として、はなばなしく論壇で筆戦を展開しておりましたこともあり、また論壇ならびに学界において社会主義をどうあつかっていいか各方面とも大いに悩んでおった時であります。しぜん、会場には多少殺気さえ漲ろうとしておったからであります。この時高野先生が立って、「福田君、つまらぬことをいうものではない。時代が変わるとわれわれのなかから社会主義者が出てもいいではないか、社会主義者でも社会政策を主張してもいいではないか」と申されました。きわめて簡単な言葉ではありますが、福田先生も直ちにこれを承認しました。それで社会政策学会の会員資格の問題はこれでかたづいた形となりました。この点が高野先生の力量と申しますか、あるいは進歩的な
大正八年の秋、国際聯盟の事業としての第一回国際労働会議なるものが、ワシントンで開かれることになり、日本から労働を代表する代表を誰にするかという問題が起りました。政府はいろいろの候補者を選定しようとしたけれども、すべて失敗に帰し、けっきょく高野先生を選任することに内定し、先生ならば労働側も文句はないという見込みであり、先生もまたそういうインフォーメーションにもとづき、それに内諾を与えました。しかるにその時、日本総同盟は議論ののち労働代表はかならず労働組合の代表でなければならない。高野先生は労働運動の理解者、同情者として十分尊敬はするけれども組合員ではない、この際は高野先生の選任にはんたいするという決定をいたしました。これはまったくインフォーメーション不十分から起こったことですが、それにしても、高野先生は政府との約束を守るべきか、平素の自己の主張にしたがって、労働組合の決定を正しとすべきか進退両難に陥りました。このいきさつは非常に複雑で、また当時の日本の社会の苦悶を語るいろいろな要因をふくんでいたのでありますが、高野先生は、熟慮の結果、友人の説をしりぞけ、労働組合の主張に殉ずることにきめ、政府との約束を廃棄いたしました。と同時に、高野先生は官吏として食言の責任はみずからとるべきものとして、直ちに東大教授を辞職いたしました。これは高野先生にとって大事件であったと共に日本労働運動史上の大事件でありました。というのは、これによって日本の労働組合は、はじめて公的存在を主張し得たからであります。日本総同盟はこのことについて長く先生を徳としました。
つづいて大正九年一月には、私はいわゆる森戸事件に連座し、『経済学研究』の発行名義人として訴追を受けましたので、東大を休職となりました。この事件は判決確定までに長い時間を要しました。その後大正十年四月には、私は留学の途につきました。それで、社会政策学会の幹事の仕事は上野道輔君に依託されることになりました。また高野先生はそういう関係で東大をはなれると共にしばらく社会政策学会のことに直接発言せられなくなりました。社会政策学会はその後、上野道輔君より河津先生の手に移され、他の幹事諸君とともに運営されることになりがしたが、こういうゴタゴタがつづいたので、従来のごとく、例会を開くことも少なくなりました。大正十二年には関東震災などもあって、それを開く方法もなくなりました。しぜんこの会は衰運に向い、ほぼ睡眠の状態になりました。そして大正十三年には正式に解散いたしました。この運命につきましては、いろいろの事情があったと思われます。今日から考えてその二、三の事情をあげますと、大正八年以来経済学が非常に盛んになって、各大学の教授の数が非常に増加したためにその連絡が困難になったこと、また新しく経済学をやるようになった人々が、社会政策学派に対して批判的になったこと、また黎明会その他の運動があり、雑誌改造、中央公論等によるジャーナリズムの発達があって、学者の舞台が、学会よりはその方面に動員されたこと等が、その主な原因であったと思います。ある意味においては時勢上やむを得ないことであったと思います。それにしても社会政策学会が、これらの時代の変化に応じてみずからの姿を変え得なかったことは、社会政策学会の失敗であったことは疑いない。そしてその失敗の責任の大半は少なくとも私が負わなければならないものと思います。これは、私がその大切な時期に外国にまいりましたことにもよりますが、それよりもっと基本的な原因は、高野先生が東大を去られて大阪にいかれ、大原社会問題研究所に職場を移されたので、大黒柱がなくなったからであります。その点を逆の面からいいますならば、社会政策学会の事務所が東大にあり、唐代に於ける社会政策学の担当教授が河合栄治郎君になったにもかかわらず、河合君は社会政策学会に興味をもたず、そのため中心幹事がなくなったからであります。
社会政策学会は、そういうふうにして不振に陥り事実において枯死いたしましたが、高野先生はそれを再建する志をもっておられました。が、大阪という限られた、当時学問にはあまり関係のない地に住んでおられたので、もとのままでそれを再興することは、事実上不可能でありました。そこで先生は数年後、国際連盟の国際労働事務局の日本代表浅利〔順四郎〕君の依頼をうけて、日本国際労働協会を創り、その支部を大阪に設け、みずからその会長および大阪支部長として、この協会を社会政策学会とほぼ同様の社会的啓蒙機関とすることを努力されました。事実においてこれは大阪労働学校とともに、大阪における労働問題についての社会教育機関となりました。そしてこれら二つの機関は、大原社会問題研究所長としての高野先生の付帯事業でありまして、大阪はもちろん東京においても、なかなか大きい存在となり社会政策思想の普及に大きい足跡をのこしました。当時大阪朝日新聞の主筆であった下村宏先生は高野先生の協力者でありました。すなわち下村先生が社会政策学会の桑田先生の地位でありました。ここで大阪労働学校および国際労働協会、それの発展としての社会立法協会のことについてのべるべき順序となります。それについてはお話申しあげることがたくさんありますから、また別の機会にゆずりたいと存じます。
要するに社会政策学会というのは、日清戦争後に生まれて、世界大戦後の混乱時代までの間の、日本経済学の綜合的な学界と社会との接触機関であり、また学者の学問的友誼機関でありましたが、それがそういうものとして、数人の青年学徒のゼミナールから大機関として発達したのには、高野先生のなみなみならぬ努力があったのであり、またそれがそういう機関として社会的な勢力となったのは、高野先生の大きい抱擁力をもつ人格のおかげであったといっていいでありましょう。もちろん、こういう会のことでありますから、多くの協力者の協力をも十分に評価しなければならないのは当然で、その意味では創立当時の小野塚、山崎両先生の、また会の盛大であった時代の協力者福田、塩沢、堀江、中島、下村、矢作、高岡その他の諸先生の協力も高く評価されなければならないけれども、それにもかかわらず、これらの人々はみな、高野先生の個人的親友であり、しかも社会政策学会に関しては、これらの諸先生の共同の中心を成していたものは高野先生であったということで、やはり高野先生をその生みの親、育ての親といっていいと思います。そこで、私は結論として次のように申しましょう。社会政策学会は全体としては、日本経済学発達の第二期すなわちその自由主義の輸入時代から、歴史派または社会政策学派による自己確立の綜合学術展覧会でありました。そして前記の諸先生はその
初出は、鈴木鴻一郎編『かっぱの屁』(法政大学出版局、一九六一年)。